「作新学院高等学校」の版間の差分

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'''作新学院高等学校'''(さくしんがくいんこうとうがっこう)は、[[栃木県]][[宇都宮市]]一の沢一丁目にある[[高等学校]]。
 
 
== 特色 ==
=== 概要 ===
日本最大の規模と卒業生を持つ大規模校であり、ピークの[[1991年]]には4部<ref>英進部・男子部・女子部・情報科学部</ref>3学年合わせて約1万人の在校生がいた。長年、同一敷地内に[[別学]]の男子部・女子部を設置していたが、[[2003年]]、二つの部を統合し、「総合進学部」を設置した。現在、英進部、総合進学部、情報科学部の3部で、約4千名の在校生を擁する日本一の生徒数を誇る学校である。敷地内に幼稚園・小学部・中等部・高等部がある。高校の分だけで、10以上の校舎、3つの体育館、3つのグラウンドを持つ<ref>『百十年誌』作新学院編、1995年</ref>。校名の「作新」は、[[黒羽藩]]14代目当主[[大関増裕|大関増徳]](増式)の開設した藩校「作新館」に由来する。藩校の「作新館」は、15代目当主大関増裕の[[海軍奉行]]時代の部下であった[[勝海舟]]も影響を与えたと言われている<ref>「作新学院同窓会 作新学院の歴史」[http://www.sakushin-ogob.gr.jp/history/index.html]</ref><ref>大田原市立黒羽小学校ホームページ[http://www.nasu-net.or.jp/~kurosyo/sub1.htm]</ref>。廃校になった作新館の名称を継承したのは、直接的な関係は無いが、創立者の船田兵吾と黒羽藩士(栃木県議 )小山田辯助が懇意であったことによる。設立においては、[[田中正造]]らの協力があった。なお、「作新館」は実質的には、[[黒羽藩]]家老職、風野家屋敷跡隣地にある大田原市立黒羽小学校に引継がれている<ref>『百年誌』作新学院編、1985年</ref>。2010年4月、[[学校法人船田教育会]]から分離し、[[学校法人作新学院]]の経営する学校となる。
 
=== 教育方針 ===
一校一家 自学自習 誠実勤労
 
=== 教育課程 ===
3つの部(2014年のカリキュラム改編で英進部内で「トップ英進部」が分割される)に別れ、それぞれが全く異なった教育課程を持っている。授業の相互乗り入れ、単位互換等はない。また、原則として転部は行われない。
 
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: 2年次以降、進学コースと就職コースに別れる。普通科の授業に加え、専門学科の授業を受けるコース。[[総合学科]]的な位置づけである。
 
=== 生徒会活動・部活動など ===
==== 運動部 ====
硬式野球部・軟式野球部・自転車競技部・ボクシング部・弓道部・柔道部・ラグビー部などが強豪として知られる<ref>『百年誌』作新学院編、1985年</ref>。
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2019年3月の時点では[[全国高等学校総合体育大会|全国高校総体]]優勝から20年以上離れており、その中で監督の暴言、パワーハラスメントが発覚した。監督は3月18日、出勤停止1年の処分を受け、前監督だった父親のコーチ職解任も決まった<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/news/201903180000921.html 作新学院ボクシング監督を体罰やパワハラで懲戒処分] 日刊スポーツ 2019年3月18日20時35分(日刊スポーツ新聞社、2019年3月19日閲覧)</ref>。
 
=== 交通 ===
[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[宇都宮線]][[宇都宮駅]]より[[関東自動車 (栃木県)|関東バス]]「作新学院・駒生」行き、「作新学院前」バス停下車
 
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※最近(2018/10/01現在)先生(学科・小中など関係なく)も乗車指導している場合がある。
 
=== その他 ===
* 作新学院歌(第一)は、[[校歌]]としては珍しく[[ワルツ]]調(3/4拍子)である。これは、「ダンスとして踊れるような曲」として作られたためである。<ref>『作新学院九十年』作新学院「九十年」編集委員会編、1975年</ref>