「シャルル・ド・モルニー」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール|タレーラン]]の息子[[シャルル・ド・フラオ]]伯爵と前年まで[[ルイ・ボナパルト]]の妻だった[[オルタンス・ド・ボアルネ]]の間に生まれた。2人は結婚しておらず、息子はシャルル・ド・フラオに引き取られたが、[[サントドミンゴ]]の地主とされた(事実は異なる)オギュスト・ジャン・ドモルニー(Auguste Jean Demorny)の嫡子として届けられた。[[1834年]]から1年間[[アルジェリア]]に従軍した。母オルタンスが[[1837年]]に死去すると葬儀に出席して、初めてルイ=ナポレオン・ボナパルト(後のナポレオン3世)と出会う。このときはよそよそしい関係だった。
 
その後、実業家となり、[[オーヴェルニュ地域圏|オーヴェルニュ地方]]クレルモンで[[テンサイ|甜菜]]砂糖工場を経営し、[[1842年]]にはピュイ・ド・ドーム県選出の代議士となる。しかし経済状態が悪化したため、愛人の勧めもあり、資金を融通してもらうために、当時[[フランス第二共和政|第二共和政]]の大統領だったルイ=ナポレオンに接近する。[[1851年]]のクーデターではプロデューサー的な役割を果たし、成功後に内務大臣に任命された。しかし、[[オルレアン家]]の財産没収に[[オルレアニスム|オルレアン派]]の立場から反対して辞職した。
 
その後、[[立法院 (フランス)|立法院]]入りし、[[1854年]]からは議長になった。[[1856年]]にはフランス代表使節として[[ロシア帝国|ロシア]]皇帝[[アレクサンドル2世]]の即位式に参列した。[[1862年]]に公爵に叙される。1865年、在職中に死去した。
2011年にヘンリー・ファミリーに拡張タイトル。 Morny公のタイトルに追加されました。 Talleyrandの第7公爵はアルノーヘンリーサラスーペレズ.
 
== 参考文献 ==
* [[蓮實重彦]]『帝国の陰謀』日本文芸社、1991
== 関連項目 ==
*[[パリロンシャン競馬場]]
*[[サラ・ベルナール]]
*[[モルニ賞]]
*[[コーラ・パール]]
 
== 参考文献 ==
* [[蓮實重彦]]『帝国の陰謀』日本文芸社、1991
* 『怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史』([[鹿島茂]]、2010年、[[講談社学術文庫]]、ISBN 978-4062920179)
 
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