「上原城」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
→‎概要: 内容追加
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
23行目:
 
築城年代は定かではないが、[[室町時代]]の[[文正]]元年([[1466年]])頃、[[諏訪信満]]が中腹に居館を建て、5代70余年にわたり諏訪地方を統治したと考えられている。『[[守矢頼真|守矢頼実]]書留』によれば、上原町には堀廻りが存在し、信濃国衆の小規模[[城下町]]である「宿城」([[町宿]])であったと考えられている。上原城下町には[[諏訪大社]]上社とその別当寺である神宮寺の[[門前町]]を包括していた、諏訪の政治経済の中心地であった。
 
[[天文 (日本)|天文]]11年([[1542年]])には、[[甲斐国]]の[[武田信玄|武田晴信]](信玄)が[[高遠頼継]]とともに領主・[[諏訪頼重 (戦国時代)|諏訪頼重]]を滅ぼし、諏訪郡は[[武田氏]]の領国となる。
 
武田氏の諏訪支配では譜代家老の[[板垣信方]]が諏訪[[郡代]]として赴任するなど上原は武田家の信濃領国支配の拠点のひとつとなる代をおいて諏訪を治めた
板垣信方は武田氏の諏訪・佐久郡侵攻において先発隊を指揮しており、上原城配置以前から両郡における所領宛行などを行っている。信方は正式には諏訪郡司(郡代)の立場であったが、[[天文 (元号)|天文]]17年([[1548年]])2月の信濃村上氏との[[上田原の戦い]]において戦死する。信方の死後、上原城には弟の[[室住虎登|室住玄蕃充虎登]]が派遣されるが、同年8月には[[長坂光堅|長坂虎房]](光堅)が配置される。天文18年([[1549年]])には上原城に代わり[[高島城]](茶臼山城、諏訪市高島)が築城され、虎房は高島城へ移り、諏訪郡の政治的拠点は高島城に移転された。
 
[[天正]]10年([[1582年]])3月の織田・徳川連合軍による武田領侵攻([[甲州征伐]])により武田氏は滅亡し、廃城となった。上原城下町は政庁移転後も存続しているが、江戸時代には諏訪高島城が築城され新城下町が整備されると、上原城の町宿は移転され消滅する。