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== 実験場としての満州 ==
里見は[[電通]]が今のような広告会社になったきっかけを作った一人である」とした[[佐野眞一]]の一文がある。電通通信史刊行会の「電通通信史」 (1976; 以下『電通史』と略す) によると現在の広告代理店の電通は[[光永星郎]]を創業者とする「日本電報通信社」という[[通信社]]に始まっている。光永は[[日清戦争]]で従軍記者だった経験をもつが、戦場から記事を書いても新聞が記事を掲載しなかったり、掲載しても時間が遅いなどに不満をもち自ら通信社を興し日本中の新聞に迅速にニュースを送るという大望を抱いた (詳細は[[通信社の歴史]]を参照)。
 
御手洗辰雄の「新聞太平記」 (1952; 以下『太平記』と略す) では、光永が通信社経営のために苦心した様子が描かれている。光永はニュースを新聞社へ売ったとしてもそれだけでは経営が立ち行かないと考え、全国の新聞の広告欄について広告主と新聞の仲介者として手数料を取る広告代理店の業務を兼業するアイデアに至る。通信社が広告代理店となったのはこれが最初ではなくフランスの[[アヴァス通信社|アヴァス]]にも例があり、国内でも光永が最初ではない。しかし新聞市場を科学的に研究した光永は「新聞年鑑」を発行するなどプランを実現化する (詳細は[[通信社の歴史]]を参照)。