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彼は1955年12月、IBMを一旦退職し、ラモ・ウッドリッジ、そしてアエロニュートロニックで開発に従事した後、1960年9月復職している。
復職後、彼は[[System/360]]ファミリー・アーキテクチャーの開発に従事し、1965年IBMフェローに就任し、カリフォルニア、メンロ・パークの[[ACS]]研究所の主任に就任した。
彼は自身が提案したコンピューター開発の
メインフレーム・コンピューター市場においてIBMと競合する形で、同社は1975年プラグ・コンパティブル・メインフレームの製造に乗り出した。アムダール[[470-V6]]はIBMシステムに対しより低額で、信頼性が高く、より高速な代替品として提供されたものである。
アムダール470とサード・パーティの製造会社が提供する互換周辺機器を購入することによって、顧客は実際にはIBMのハードウェアを購入せずに[[
アムダールはまたIBMの
1979年までにアムダール社はのV6とV7メインフレームでUSドル換算で10億ドルの売り上げを達成し、世界中で六千人以上の雇用を創出している。
同社は富士通の技術者と共同で高性能のディスク・ディバイスと、IBMプラグ・コンパチブル・フロント・エンド・プロセッサー(4705)を流通させることに成功した。
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