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'''二階堂 トクヨ'''(にかいどう トクヨ、[[1880年]][[12月5日]] - [[1941年]][[7月17日]])は、[[宮城県]][[大崎市]](旧[[三本木町 (宮城県)|三本木町]])出身の[[教育者]]。[[日本女子体育大学]]創設者<ref name="ks1903"/><ref name="Osaki"/>。「'''[[女子体育の母]]'''」と称される<ref name="ks1903"/>{{sfn|勝場・村山|2013|pp=22-23}}。日本初の女子[[オリンピック選手]]である[[人見絹枝]]のほか、8名のオリンピック選手を育てた{{sfn|勝場・村山|2013|p=13}}。
 
[[イギリス]]留学で学んだ[[スポーツ]]の普及に努め、'''女子のスポーツとして[[クリケット]]と[[ホッケー]]を[[日本]]に初めて紹介した'''<ref name="Osaki"/>{{sfn|西村|1983|p=178}}。トクヨはこの2競技を女子のスポーツとして日本に持ち帰った{{sfn|西村|1983|p=178}}。
 
== 経歴 ==
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女高師の卒業後は[[教師]]となり、最初の赴任先は石川県立高等女学校(石川高女、現・[[石川県立金沢二水高等学校]])であった{{sfn|西村|1983|p=36}}。赴任前に「主として体操科を受け持ってほしい」という私信を受け取っていたが、トクヨは何かの間違いだろうと思い、最初の校長{{#tag:ref|当時の校長は[[体操伝習所]]の卒業生である土師雙他郎(はじ そうたろう、1853 - 1938)であった{{sfn|穴水|2001|p=41, 43}}。土師は体育を重視しており、トクヨの赴任前年に体操科の中心を担った高桑たまが病死したため、トクヨに高桑と同様の役回りを期待していた{{sfn|穴水|2001|pp=44-45}}。|group="注"}}からの言葉でそれが事実だと知ると絶句した{{sfn|西村|1983|pp=36-38}}。本業の国語の教師は十分いる一方、体操の免許を持った教師は不足していたから{{#tag:ref|実際には国語の担当教師は2人しかおらず、土師校長がトクヨを納得させるために使った方便であったと考えられる{{sfn|穴水|2001|p=46}}。|group="注"}}であった{{sfn|西村|1983|p=36}}。体操のことを「義理にもおもしろいとは云えぬ代物」、「怒鳴られて馬鹿馬鹿しい」、「およそ之れ程下らないものは天下にあるまい」と酷評していたトクヨにとって体操教師を命じられたことは不本意であるばかりでなく、大恥辱である、世間に対して面目を失う{{#tag:ref|トクヨが特別体操を卑下していたというわけでなく、当時の日本社会が体操教師を軽視する傾向があった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=49}}。|group="注"}}、とまで思っていた{{sfn|西村|1983|pp=39-40}}。しかし、女高師の卒業生は5年間任地で教職を全うする義務を負っていたこと、女高師時代のジンクスから翌[[1905年]](明治38年)の春に自分は死ぬのだろうと思っていたことで、決死の覚悟で体操を教えることにした{{sfn|西村|1983|p=40}}。最初は週13時間の授業に身も心も疲弊したが、数か月すると自身の体調が良くなっている{{#tag:ref|この文章の元になっているのは、イギリス留学から帰国した後のトクヨが自身の転換点として言及したものである{{sfn|穴水|2001|p=15}}。文学好きのトクヨは悲劇のヒロインに自己同化する傾向があり、誇張された表現とみるべきである{{sfn|穴水|2001|pp=15-16}}。周囲の人からは金沢で初めて洋装した、純白の体操着を身に付けた颯爽とした印象の人だと見られており、身も心も病んでいるようには見えていなかった{{sfn|穴水|2001|p=16}}。|group="注"}}ことを発見し、夏には[[井口阿くり]]{{#tag:ref|井口は1903年(明治36年)に女高師教授に着任したので、トクヨが4年生の時と重なっているが、井口は国語体操専修科を主に担当したため、文科のトクヨと接点はなかった{{sfn|西村|1983|p=38}}。|group="注"}}が講師を務める3週間の体操講習会を受講し、スウェーデン体操を学んだ{{sfn|西村|1983|pp=41-42}}。
 
井口の講習を受けたトクヨは素人では到底教えられないと痛感し、体操を学びたいと思うようになった{{sfn|西村|1983|p=42}}。幸運にも、体操専門学校を卒業した[[カナダ人]][[宣教師]]のフランシス・ケイト・モルガン{{sfn|穴水|2001|p=55}}(ミス・モルガンが[[金沢市]]に[[キリスト教]]を布教しに来ていたため、トクヨは1日おきに30分の個人レッスンをモルガンの家の庭で受け始めた{{sfn|西村|1983|pp=42-43}}。モルガンの教える体操は、スウェーデン体操にドイツ体操を混合した独自のもので、指導のうまさと相まって、トクヨはどんどん体操にのめり込んでいった{{sfn|西村|1983|pp=43-44}}。トクヨが習った体操はさまざまな体操器具を使うものであったが、器具が整わなくてもできるよう、[[跳び箱]]の代わりに[[トロリーバッグ|トランク]]を、[[平均台]]の代わりに[[ベッド]]2台の間に渡した板を、水平棒の代わりに柱と柱の間に張った[[縄]]を、肋木の代わりに[[本棚]]を活用する方法{{#tag:ref|トクヨがこうした器具の応用は体操専門学校で教わるものではなく、体操から遠ざかっている間にモルガンが身に付けた見聞や経験を生かしたものだと考えられる{{sfn|穴水|2001|p=59}}。|group="注"}}をモルガンは伝授した{{sfn|西村|1983|p=43}}。ついには石川高女の全生徒を対象に週28時間もの体操の授業を受け持つ{{#tag:ref|本業の[[国語]]でも50人の作文指導を行っている{{sfn|西村|1983|p=45}}。|group="注"}}に至り、[[石川県]]の郡部を回って小学校教師向けに体操の実地指導を行うようになった{{sfn|西村|1983|pp=44-45}}。この頃の教え子に時の[[石川県知事]]・[[村上義雄]]の娘がおり、父娘ともどもトクヨの体操に魅了され{{#tag:ref|トクヨが体操指導をする前に石川高女で行われていた体操は、校内に設置された[[遊動円木]]や[[ブランコ]]を使うもの、[[鉄亜鈴|アレイ]]や[[棍棒]]などの手具を使うもの、[[テニス]]であった{{sfn|穴水|2001|pp=43-44}}。スウェーデン体操は当時日本に入ってきたばかりであり、最新の体操を教え、洋服を着こなすトクヨは生徒の憧れであった{{sfn|穴水|2001|p=16, 46}}。|group="注"}}、知事の後ろ盾を得て[[運動会]]ではプロの[[楽隊]]を入れて体操を行うという企画を行ったり、生徒を男役と女役に分けて[[カドリーユ]]を踊らせたりした{{sfn|西村|1983|p=47}}。この運動会では、入場券を得られなかった[[第四高等学校 (旧制)|第四高等学校]](現・[[金沢大学]])の学生が塀を乗り越えて乱入し、[[警察官]]が監視に当たるほどの大変な評判{{#tag:ref|石川高女の運動会を「金沢名物」にしたのはトクヨの功績である、と語る当時の生徒は多いものの、実際にはトクヨ赴任の前年の運動会に2,500人が観覧に訪れたという記録があり、石川高女の伝統にトクヨが上乗せしたものと言える{{sfn|穴水|2001|pp=46-47}}。|group="注"}}を呼んだ{{sfn|西村|1983|p=47}}。
 
[[1907年]](明治40年)7月、トクヨは[[高知師範学校|高知県師範学校]](高知師範、現・[[高知大学]]教育学部)への出向を命じられた{{sfn|西村|1983|p=50}}。しかし[[高知市]]に来てすぐに[[マラリア]]に感染し、入院を余儀なくされた{{sfn|西村|1983|p=50}}。教諭兼舎監{{#tag:ref|舎監として、夜中に高知師範女子[[寄宿舎]]に侵入した[[泥棒]]を[[薙刀]]で追い払った{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=54}}。トクヨに[[武士]]の血が流れていることを示すエピソードである{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=54}}。|group="注"}}に着任し、歴史1時間、体操18時間{{#tag:ref|本格的に体操教師になったトクヨに弟の清寿は「物好きにもほどがある」と自分の思いを伝えたが、トクヨは全く意に介さなかった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=49}}。|group="注"}}を受け持った{{sfn|西村|1983|p=50}}。体操の授業中、生徒を木陰で休ませている時に、[[ウィリアム・シェイクスピア]]の[[戯曲]]を語り生徒を喜ばせた、という逸話が残っている{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=65}}。[[高知県]]でもトクヨは体操講習会を開き、その模様は土陽新聞(現・[[高知新聞]])に取り上げられた{{sfn|西村|1983|pp=51-52}}。この頃トクヨは、自身がスウェーデン体操を教えているつもりであったが、実際には金沢では[[第9師団 (日本軍)|第9師団]]、高知では[[歩兵第44連隊]]で行われていた軍隊式訓練を見よう見まねで教えていたのであった{{sfn|西村|1983|pp=52-53}}。軍人からは「女軍の一隊だ」などと言われたことに当時のトクヨは得意げだったが、後に振り返って「之れ等を思へば総べて漸死の種なり」と綴っている{{sfn|西村|1983|pp=52-53}}。[[1909年]](明治42年)[[7月31日]]、トクヨは二階堂姓に戻った{{sfn|西村|1983|p=21}}。[[1910年]](明治43年)末、トクヨは母校の東京女子高等師範学校{{#tag:ref|女子高等師範学校から改称していた。|group="注"}}(東京女高師)の体操科研究生になることを願い出た{{sfn|西村|1983|p=53}}。この願い出は後に取り下げるが、次には宮城師範への転任の話が舞い込み、更に母校・東京女高師からは助手就任の勧めが来て、また別の学校からも就任依頼が届いた{{sfn|西村|1983|pp=53-54}}。トクヨはこの中から東京女高師の職を選び、高知師範を辞して{{sfn|西村|1983|p=54}}[[1911年]](明治44年)春に東京女高師[[助教授]]に着任した{{sfn|穴水|2001|p=16}}。トクヨはこの時30歳で、異例の抜擢となった{{sfn|穴水|2001|p=16}}{{sfn|西村|1983|p=2}}。
 
東京女高師での仕事は、6時間の授業と井口阿くり・[[永井道明]]両教授の補佐であった{{sfn|西村|1983|p=54}}。ところが井口は同年7月に藤田積造と結婚して退職した{{#tag:ref|井口の退職は、文科出身ながら体育に一生を捧げようとしているトクヨの熱意に打たれた井口が、自らの後任とすべく引退したという説がある{{sfn|西村|1983|p=54}}。井口は退職時に「其筋へも学校へもあなたを推薦して行きますから」とトクヨに声をかけている{{sfn|西村|1983|p=54}}。|group="注"}}ため、トクヨは井口の後任として女子体育の指導者の重責を負うことになった{{sfn|西村|1983|p=54}}。体操を専攻した者ではないのに、体操界の権威になろうとしていたトクヨは同僚4人から妬まれ、家族宛ての手紙で「たかがウジ虫メラ!」とののしっている{{sfn|穴水|2001|p=82}}。
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[[1912年]](大正元年)[[10月1日]]、トクヨは体操研究のため2年間のイギリス留学を命じられた{{sfn|西村|1983|p=3}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=65}}。留学を推薦したのは上司の永井道明であり、永井は女子体育の担い手としてトクヨに期待していた{{sfn|西村|1983|p=3}}。[[11月20日]]、[[曇り]]空の下で永井道明、安井てつ、長沼智恵子(後に高村姓となる)、[[高村光太郎]]ら10人が見送りに駆けつけ、横浜港から旅立った{{sfn|西村|1983|p=1}}。イギリスに派遣された日本女性の体育留学生は井口阿くり以来2人目であった{{sfn|曽我・平工・中村|2015|p=1997}}。
 
[[1913年]](大正13年)[[1月15日]]、{{仮リンク|ロイヤルアルバートドック|en|Royal Albert Dock}}に入港しイギリスに到着するも、予定より1日早く着いたため迎えの人が来ておらず、船中でもう一夜を明かした{{sfn|西村|1983|pp=4-5}}。翌1月16日、迎えは来たものの、その人は留学先のキングスフィールド体操専門学校(現・{{仮リンク|グリニッジ大学|en|University of Greenwich}})の場所を知らず、雨の降る中ようやく夕方に学校に到着し、入学手続きを行った{{sfn|西村|1983|p=5}}。学校側は「[[アシスタント・プロフェッサー]]が留学してくる」と聞いて身構えたが、いざトクヨに試験を課すと何も知らないことが判明し、トクヨは「一体まあ、何をあなたは教えていました?」と教師一同から問われてしまった{{sfn|西村|1983|pp=83-85}}。そんな中で唯一、「家庭競技」だけは「興味ある室内ゲームだ」と高評価を得た{{sfn|西村|1983|p=85}}。トクヨが披露したのは羅漢遊び(各人が違った身振りをする<ref>{{cite web|url=http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000013107|title=「羅漢さん」という遊びのル-ツについて知りたい。|author=[[東京都立中央図書館]]|work=[[レファレンス協同データベース]]|date=2007-03-06|accessdate=2018-08-21}}</ref>)、[[葛の葉|篠田の森の狐つり]](わらべ歌<ref>{{cite web|url=http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000083210|title=京都のわらべうたと思われますが、みかんつりのときうたわれたわらべうたで…|author=[[大阪府立中央図書館]]|work=レファレンス協同データベース|date=2011-03-27|accessdate=2018-08-21}}</ref>)、鼻々遊び(手遊び歌<ref>{{cite web|url=https://www.natsume.co.jp/books/1094|title=保育で役立つ! 0〜5歳児の手あそび・うたあそび|author=阿部直美|publisher=[[ナツメ社]]|accessdate=2018-08-21}}</ref>)、[[さよなら三角またきて四角|はげ頭]]([[言葉遊び]]<ref>{{cite web|url=http://furiya-music-material.miyakyo-u.ac.jp/multicul/aizu/sayonara/index.html|title=1.さよなら三角 またきて四角|date=2014-06-24|publisher=[[降矢美彌子]]研究室|work=会津のわらべうた|accessdate=2019-08-21}}</ref>)などであった{{sfn|西村|1983|p=85}}。
 
キングスフィールド体操専門学校の授業は理論と実科に分かれ、理論では[[生理学]]・[[解剖学]]・[[衛生学]]など、実科では教育体操・医療体操・[[舞踊]]・[[競技]]などを学び、理論と実科にまたがる「教授法」の科目もあった{{sfn|西村|1983|p=89}}。最初は何も知らないと驚いていた教師陣も、日々急速に成長していくトクヨに「天才だ」と賛辞を贈るようになった{{sfn|西村|1983|pp=92-93}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=65}}。トクヨが最も影響を受けたのは、校長の[[マルチナ・バーグマン=オスターバーグ]]であった{{sfn|穴水|2001|pp=17-18}}。学校の長期休暇中は、[[ロンドン]]市内の女子体操学校を参観し、[[チェシャー|チェシャー州]]{{仮リンク|オルトリンガム|en|Altrincham}}の[[夏季学校]]での[[水泳]]練習、ロンドンの舞踊塾での[[ダンス]]練習に励んだ{{sfn|西村|1983|pp=94-98}}。特に水泳は苦手で最も苦しんだが、1か月後には一通りの型を習得し{{#tag:ref|水に入っているのは1日1回30分までという規則を破って3時間練習したり、1日2回入水したりして猛練習した成果である{{sfn|西村|1983|p=95}}。これを知った教師は「そんな無理をするなら証明書はやらない」と激怒したが、限られた時間内で水泳の実力を付けたかったトクヨにとって証明書の取得は重要なことではなく、ついに教師側が折れてトクヨは猛練習を認められた{{sfn|西村|1983|p=95}}。|group="注"}}学年1位の成績を得た{{sfn|西村|1983|p=95}}。
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=== 二階堂体操塾の創立(1922-1926) ===
[[ファイル:Nikaido Gymnastic School, Yoyogi.png|thumb|二階堂体操塾]]
[[1922年]](大正11年)[[4月15日]]{{sfn|西村|1983|p=205}}、私財を投げ打ち{{#tag:ref|トクヨが投じた私財は、母の老後の住まいを買うために貯金していた1,500円である{{sfn|穴水|2001|p=135}}。先述の通り、募金も開塾資金に利用している{{sfn|西村|1983|p=194}}。体育研究所から体操塾に計画変更後に募金額が増え、最終的に3,800円となった{{sfn|西村|1983|p=201}}。うち3,500円を塾舎の整備に、残る300円を風呂桶・風呂釜の購入に充てた{{sfn|西村|1983|p=201}}。|group="注"}}、[[日本女子体育大学]]の前身となる「二階堂体操塾」を開いた<ref name="jwcpe"/>{{sfn|穴水|2001|p=179}}。女子体育の研究機関と女子体育家(≒女性体操教師)の養成機関を兼ねた塾で、トクヨを中心として入塾生とともに創り上げていく共同体であった{{sfn|穴水|2001|p=136}}。この時トクヨは41歳であった{{sfn|穴水|2001|p=179}}。

創立構想時には「日本女子体操学校」の名で1年制の学校とし、[[入学試験]]がない代わりに1か月後に本入学試験を課して見込みのある者のみ残す方針{{#tag:ref|トクヨの留学先のキングスフィールド体操専門学校を模範としたものである{{sfn|西村|1983|p=197}}。|group="注"}}であった{{sfn|西村|1983|pp=196-197}}。[[校舎]]は東京・下代々木(後の[[小田急小田原線]][[参宮橋駅]]付近{{#tag:ref|二階堂体操塾創立時にはまだ小田急線は開業しておらず、[[京王線]][[神宮裏駅]](現存せず)が最寄駅であった{{sfn|西村|1983|p=197}}。当時の代々木は人家もまばらで自然環境が良く、塾のすぐ近くには[[代々木練兵場]]([[ワシントンハイツ (在日米軍施設)|ワシントンハイツ]]を経て[[代々木公園]]となる)があった{{sfn|西村|1983|p=197}}。|group="注"}})に借りた[[庭園]]付きの邸宅を利用し、設立前から住み込みで準備していた{{sfn|西村|1983|pp=196-197}}。しかし開校前になって校名を「二階堂体操塾」に、仮入学制度をやめて選抜を行うこととした{{sfn|西村|1983|p=196, 200}}。また、卒業しても何の資格も得られないが、中等教員として体操科教師となれるだけの能力を身に付けさせることは請け負うし、体操科教師の不足している現状では無資格でも教師職を得て最低でも月給60円を得るだろうと宣言した{{sfn|西村|1983|p=200}}。
 
開塾に際して定員は22人と定めていざ募集をかけてみると、予想を上回る4倍の出願があり、約40人に入学を許可{{#tag:ref|1期生は途中で辞めた者、親の反対や既に教師をしていて休職許可を取れずに諦めた者、資格の採れる臨時教員養成所に転校した者、途中入学した者などがいたため、正確な入学者数を特定できなかった{{sfn|西村|1983|pp=205-207}}。『わがちから』によると1期の卒業生は49人であった{{sfn|西村|1983|p=210}}。|group="注"}}した{{sfn|西村|1983|p=200}}。二階堂体操塾は[[全寮制]]を敷くことにしていたため、トクヨが借りていた邸宅だけでは不足し、隣家も借り受け、2棟を新築して校舎兼寄宿舎に充当した{{sfn|西村|1983|p=201}}。もっとも広い21畳の部屋は、学科教室、[[講堂]]、[[体育館]]、[[音楽室]]、自習室、[[食堂]]、[[寝室]]と7種の用途があったことから「[[七面鳥]]のお部屋」と呼ばれた{{sfn|西村|1983|p=207}}。運動場が不足したため、代々木練兵場を「黙認」の形で使わせてもらっていた{{sfn|西村|1983|p=209}}。
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=== 専門学校昇格と晩年(1926-1941) ===
[[1926年]](大正15年)[[3月24日]]{{sfn|西村|1983|p=226}}、日本女子体育専門学校(体専)に昇格・改称した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}。私立の女子専門学校としては日本で20校目であり、初の女子体育専門学校であった{{sfn|西村|1983|p=227, 230}}。ところが定員を150人に増やしたところ、開校初年は約130人、2年目は約70人と[[定員割れ]]してしまった{{sfn|西村|1983|p=229}}。その理由を資格が取れないからだと考え、[[1928年]](昭和3年)[[6月4日]]、体専は中等教員無試験検定資格を取得し、学生は卒業と同時に体操科の中等教員免許が取得できるようになった{{sfn|西村|1983|p=229}}。しかしその後も学生数は回復せず、1学年40 - 50人台の状態が続いた{{sfn|穴水|2001|p=157}}。

この頃のトクヨは忙しさのあまり居留守を使ったり、黒髪を切り[[スキンヘッド|丸坊主]]になったりした{{#tag:ref|1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)頃から坊主頭だったという{{sfn|西村|1983|p=246}}。そこでトクヨは「桜菊[[尼]]」と自称するようになった{{sfn|西村|1983|p=222}}。|group="注"}}エピソードが関係者の間で知られている{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}。来客時には[[かつら (装身具)|かつら]]を着用したが、慌ててかぶるため、[[眉毛]]の近くまでかかっている時から大きく後退している時まであった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=124}}。また震災の被害や学校移転で資金繰りに窮し、学生からも借金をする羽目になった{{sfn|西村|1983|pp=227-228}}。文部省が審査のために来校した時には、[[慶応義塾大学]]や東京女子体操音楽学校(現・[[東京女子体育短期大学]])から図書や備品を借りて審査をやり過ごした{{sfn|西村|1983|p=228}}。
 
[[ファイル:Physical Education Teachers of Tokyo Higher Normal School.png|thumb|右から順に今村嘉雄、野口源三郎、二宮文右衛門、浅川正一。この写真は1941年(昭和16年)の[[東京高等師範学校]](現・[[筑波大学]])の体育科教師陣であるが、浅川以外は二階堂体操塾・体専でも教師を務めた。]]
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=== 服装と髪型 ===
金沢で初めて洋服を着た人であると言われている{{sfn|穴水|2001|p=16}}。当時のトクヨは颯爽とした印象の人だった{{sfn|穴水|2001|p=16}}が、体専の校長になった頃には服装へのこだわりはなくなり「ぞろっとした[[着物]]」を着ていたと学生が証言している{{sfn|西村|1983|p=246}}。
 
かつらは3つくらい持っていた{{sfn|西村|1983|p=246}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=124}}。来客時には[[かつら (装身具)|かつら]]を着用したが、慌ててかぶるため、[[眉毛]]の近くまでかかっている時から大きく後退している時まであった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=124}}。坊主頭にする前には[[203高地#二百三高地髷|二百三高地まげ]]にしており、髪型が崩れないように10数本もピンを刺したその姿はまるで[[甲冑]]を付けた武士のようであった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=119}}。
 
=== 美声と怒号 ===
196 ⟶ 200行目:
 
=== 対人関係 ===
トクヨが出会った順番に記述する。
 
==== 高村智恵子 ====
[[ファイル:Chieko Takamura.jpg|thumb|150px|高村智恵子(1914年頃/28歳前後)]]
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こうしてトクヨと絹枝は仲違いしてしまうが、その後和解したようで{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=143-144}}、[[1930年]](昭和5年)、国際女子競技大会への遠征費として金一封(1,000円)を絹枝に送った{{sfn|勝場・村山|2013|pp=64-65}}。[[1929年]](昭和4年)のトクヨの忠告は図らずも[[1931年]](昭和6年)に現実となり、絹枝は大阪帝国大学付属病院(現・[[大阪大学医学部附属病院]])に入院した{{sfn|勝場・村山|2013|p=81}}。同年[[5月31日]]、トクヨは絹枝の見舞いに訪れ、やつれた絹枝を見たトクヨは涙を流した{{sfn|勝場・村山|2013|p=81}}。絹枝も涙しつつ心配させまいと気丈に振る舞い、トクヨの差し入れである[[スイカ]]を2片食べた{{sfn|勝場・村山|2013|p=81}}。しかし絹枝は回復せず、[[8月2日]]に24歳の若さでこの世を去った{{sfn|勝場・村山|2013|p=82}}。トクヨは「スポーツが絹枝を殺したのではなく、絹枝がスポーツに死んだのです」という言葉を『[[婦人公論]]』に寄せた{{sfn|勝場・村山|2013|p=87}}。
 
==== 恋愛と縁談 ====
トクヨは生涯独身であった{{sfn|西村|1983|p=247}}が、年を重ねてからも結婚願望を抱き続けていた{{sfn|穴水|2001|p=143}}。
 
253 ⟶ 259行目:
最晩年になっても、トクヨは体専の若手男性教師を校長室に呼び、疑似恋愛のようなものを楽しんでいた{{sfn|穴水|2001|p=25}}。[[佐々木秀一 (1912年生の教育学者) |佐々木秀一]]は校長室に気軽に出入りを許された教師の1人で、佐々木を応対するときは、普段の孤独感を漂わせず明朗快活で、かつらは外したままだった{{sfn|穴水|2001|p=25}}。入院中、実弟の見舞いすら激怒して追い返したにもかかわらず、佐々木には面会を許し、「私は、他人のおせわになりたくない。」と話した{{sfn|穴水|2001|p=26, 150-151}}。
 
==== トクヨと軍人 ====
体育の世界に入ったことにより、トクヨの人生は軍人との関係が深いものであくなった{{sfn|西村|1983|pp=46, 246-248}}。金沢で第9師団に[[乗馬]]練習のため単身司令部に乗り込んだのが、記録に残る最初の軍人との関係である{{sfn|西村|1983|p=46}}。乗馬練習中に、将校が部下に号令をかけたがあまりうまくなく、トクヨが代わりに号令をかけたら兵隊は一糸乱れずに動いたというエピソードもある{{sfn|西村|1983|p=46}}。特に体専時代は[[陸軍戸山学校]]の教官や青年将校、[[歩兵第1連隊]]とのかかわりが多かった{{sfn|西村|1983|pp=247-248}}{{sfn|穴水|2001|p=127}}。体専に青年将校が来校した際には、授業を中断させて湯茶での接待や生徒のダンス披露などで歓待したため、現場教師の不満の種となった{{sfn|西村|1983|pp=247-248}}。トクヨの「わが身を国に捧げる」という思いは、献身的な姿勢で教え子に感動を与える一方で、その時々の政策に簡単に引っ張られてしまうという弱点を持っていた{{sfn|西村|1983|p=248}}。トクヨの人生の末期はまさに戦争に向かっている時代であり、国家主義・国粋主義的な思想を持った「軍国ばあさん」になっていき{{sfn|西村|1983|pp=248-251}}、トクヨの死後の体専の学生は、「人生とは何ぞや…と考えるより先ず自分の心の雑草を抜く。」という言葉を残しており、トクヨの教えは[[思考停止]]装置になってしまった{{sfn|穴水|2001|p=28}}。
 
トクヨは高知時代に軍人と恋をし{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=52-53}}、教え子を軍人と結婚させたこともある{{sfn|穴水|2001|p=127}}。一方で、教え子の見合い相手の軍人に対し、「今に軍隊などなくなる時代が来る」と言ったこともあり、軍人に対する見方は首尾一貫したものではなかった{{sfn|穴水|2001|pp=127-128}}。教育体操の中に[[兵式体操]]が入り込んでくることには反対していた{{sfn|西村|1983|p=153}}。軍隊で行われる兵式体操の目的は号令による統一行動であり、教育体操の目的は個人としてあるいは団体としての日常的な動作を体得することであることから、目的が違うと考えたためである{{sfn|西村|1983|pp=153-155}}。
 
==== トクヨと女子教育家 ====
トクヨは他の[[女子教育]]の専門家とも交友関係があり、幾人かとやり取りした手紙も残っている{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=137}}。具体的には[[吉岡彌生]]([[東京女子医科大学|東京女子医学専門学校]])、[[大妻コタカ]]([[大妻女子大学|大妻女子専門学校]])、[[大江スミ]]([[東京家政学院大学|東京家政学院]])、[[十文字こと]]([[十文字学園女子大学|十文字学園]])、川村文子([[川村学園女子大学|川村学園]])らが挙げられる{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=137}}。ある人からは「二階堂さんってなかなかのやり手ね、未だ駆け出しなのにもう専門学校にしてしまった。」と塾の創立からわずか4年で専門学校に昇格させたことをやっかまれたこともあった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=137}}。