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== 沿革 ==
=== ファミリーカンパニーマセラティ兄弟の創業 ===
{{see also|:en:Maserati Brothers}}
[[File:Four_Maserati_brothers.jpg|thumb|200px|マセラティ4人の兄弟(Ettore, Bindo, Ernesto, Alfieri Maserati)]]
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カルロが病死した後、兄譲りの才能を持つアルフィエーリを中心にして、エットーレとエルネストの3人で独立し、1914年12月1日<ref>“[http://www.jaia-jp.org/attractive/maserati1408/ マセラティ創業100周年]”. JAIA 日本自動車輸入組合 (2014年8月20日). 2019年8月16日閲覧。</ref>に故郷ピアチェンツァに近い[[ボローニャ]]で自動車工房'''ソシエータ・アノニーマ・オフィチーネ・アルフィエーリ・マセラティ'''を開業する<ref>『世界自動車図鑑 マセラティ』、51頁。</ref>。初期は市販車のレーシングチューンを主業とし、[[第一次世界大戦]]中は[[雲母]]を[[絶縁体]]とする[[スパークプラグ]]を開発し、軍需産業向けに業績を伸ばした。
 
終戦後は[[ディアット]]{{enlink|Diatto}}と提携し、グランプリマシンの製作を依頼される。ディアットが資金難に陥ると計画を譲り受け、マセラティの名を冠したオリジナルレーシングカーティーポ26”26」を完成させ、[[1926年]]の[[タルガ・フローリオ]]でアルフィエーリがドライブし、デビュー戦でクラス優勝を果たす。このマシンのグリルには、芸術家になったマリオがデザインした三叉の銛([[トライデント]])のバッジが付けられた<ref name="gazoo">“[https://gazoo.com/article/car_history/161216_1.html アルファ・ロメオとマセラティ (1930年)]”. GAZOO.com (2016年12月16日). 2019年8月15日閲覧。</ref>。
 
以後、レーシングカーを製造販売するコンストラクターとして名を広め、ライバルメーカーの[[アルファロメオ]]と国内外のレースで競い合う<ref name="gazoo"/>。[[世界恐慌]]の荒波の中、[[1932年]]に大黒柱のアルフィエーリが44歳で他界すると、エルネストが会社を引き継ぎ、ビンドも経営に加わった。[[ナチスドイツ]]の威信を背負う[[メルセデス・ベンツ|メルセデス]]と[[アウトウニオン]]がグランプリを席巻し、家族経営のマセラティは小排気量のヴォワチュレットクラス(のちの[[フォーミュラ2|F2]]に相当)に活躍の場を見い出した。
 
=== オルシ家の時代 ===
資金難が続いた結果、[[1937年]]にマセラティ兄弟は[[モデナ]]の実業家アドルフォ・オルシ (''Adolfo Orsi'') に経営を譲渡し、息子のオメール・オルシが社長に就任した。マセラティ兄弟はコンサルタントとして10年間会社に在籍するという契約を交わす。[[1940年]]にはモデナのチーロ・メノッティ通りに本社工場を移転。奇しくも、この地モデナは[[エンツォ・フェラーリ]]の創業者出身地でもあり、同じ1940年に[[エンツォ・フェラーリ]]の地元でもあった前身となるアウト・アヴィオ・コストルツィオーニを設立している<ref>1943年にモデナ近郊の[[マラネッロ]]へ移転。</ref>
 
[[ファイル:1947MaseratiA61500PrototipoNo1Ginevra.jpg|thumb|right|200px|マセラティ・A6 1500 [[ピニンファリーナ]](1947)]]
[[第二次世界大戦]]後の[[1947年]]、契約の10年間を終えたマセラティ兄弟は会社を離れ、ボローニャで[[オスカ|O.S.C.A]]を創立する。同年、[[サロン・アンテルナショナル・ド・ロト|ジュネーヴ・モーターショー]]でマセラティ初のロードカー{{仮リンク|マセラティ・A6|label=A6 1500|en|Maserati A6}}を発表。関連会社として"Fabbrica Candele Accumulatori Maserati S.p.A."を設立し、スパークプラグやアキュムレーターなどの自動車部品を生産し、後に[[モペッド]]やオートバイも生産した。
 
1950年代は[[フォーミュラ1|F1]]や[[スポーツカーレース]]の世界選手権で成功するが、[[1957年]]限りで[[ワークスチーム|ワークス]]のレース活動をする一方量産車ロードカー[[マセラティ・3500GT|3500GT]]」や「[[マセラティ・5000GT|5000GT]]を発表して、高級スポーツカーメーカーへの転身を進める。[[1963年]]に発表した初の4ドアセダン[[マセラティ・クアトロポルテ|クアトロポルテ]]はラグジュアリーなブランドイメージを確立し、以後マセラティの主力モデルとなる。また、[[マセラティ・ミストラル|ミストラル]]以降、「風」にまつわる車名を付けるようになった。1966年発表の[[マセラティ・ギブリ|ギブリ]]は[[フェラーリ・275GTB]]や[[ランボルギーニ・ミウラ]]と公道最速の座を争った<ref>『世界自動車図鑑 マセラティ』、123頁。</ref>
 
=== シトロエンとデ・トマの時代 ===
[[1966年]]、フランスの[[シトロエン]]と業務提携し、[[シトロエン・SM]]に搭載する[[DOHC]][[V型6気筒|V6]]エンジンの開発を受託することが発表される<ref>『世界自動車図鑑 マセラティ』、125頁。</ref>。経営難に苦しんでいたオルシ家は株式の60%を売却し、[[1968年]]にマセラティはシトロエンの傘下に入る。この伊仏提携時代には[[ミッドシップ]][[スーパーカー]]「[[マセラティ・ボーラ|ボーラ]]」を発表したり、シトロエンの看板技術である[[ハイドロニューマティック]](油圧作動システム)を搭載したりしている。
 
しかし、[[オイルショック]]の影響などによりシトロエンの業績が悪化し、クアトロポルテ」の量産は中止となる。1976年にシトロエンは[[プジョー]]の主導で[[PSAグループ]]に編入されるが、プジョーはマセラティとの契約を破棄。マセラティは破産寸前に追い込まれたが、モデナの後発スポーツカーメーカー、[[デ・トマゾ]]が政府の産業再生機構の資金を得て、マセラティの経営再建に乗り出す。
* [[1974年]] - シトロエンを買収した[[プジョー]]と業務提携を結ぶ。
 
* [[1975年]] - プジョーとの契約を撤回、[[デ・トマソ]]傘下になる。
デ・トマソ体制下で当初発表された「[[マセラティ・キャラミ|キャラミ]]」や「クアトロポルテIII」は、デ・トマソの[[デ・トマソ・ロンシャン|ロンシャン]]や[[デ・トマソ・ドーヴィル|ドーヴィル]]の車台を共用していた。そして、マセラティの優雅でスポーティーなイメージを活かした乗用車「[[マセラティ・ビトゥルボ|ビトゥルボ]]」がヒットモデルとなり、北米や[[バブル景気|バブル期]]の日本など海外市場で売り出し、10年以上バリエーション展開を続けることになる。また、デ・トマソは[[クライスラー]]にマセラティ株の一部を売却し、「[[クライスラー・TC バイ・マセラティ]]」を共同企画した。
* [[1993年]] - [[フィアット]]傘下になる。
 
* [[1997年]] - フィアット傘下の[[フェラーリ]]傘下となる。
=== フィアットグループ内での再生 ===
* [[2005年]] - フィアット直轄となる。[[東京モーターショー]]にはフェラーリと合同ブースを設け出品。
[[ファイル:Maserati Modène 0002.JPG|thumb|right|200px|モデナのマセラティ本社]]
* [[2010年]][[4月5日]] - 日本法人「マセラティジャパン株式会社」(Maserati Japan Ltd.) を設立。[[2011年]][[1月1日]]に事業開始。
1993年、デ・トマソは[[フィアット]]にマセラティ株を売却し、フェラーリやアルファロメオと同様に、マセラティもイタリア最大のフィアットグループ(現[[フィアット・クライスラー・オートモービルズ]])傘下に加わる。1997年にはフェラーリの子会社となり、[[ルカ・ディ・モンテゼーモロ]]会長の下で再び高級スポーツカーブランドとして再構築が進められた。生産体制の合理化によりデ・トマソ時代の品質問題は改善され、フェラーリ製F1マティック譲りのパドルシフト式[[セミオートマチックトランスミッション|セミAT]]「カンビオコルサ」が装備された。
[[1993年]]以降は[[フィアット・クライスラー・オートモービルズ|フィアット・クライスラー・オートモービルズ (FCA)]] の前身である[[フィアット]]社の傘下となり、[[モデナ]]を本拠とする会社組織「Maserati S.p.A.」が設立されている。フィアットのスポーツカー部門において、同じくフィアット傘下にある自動車メーカー・[[アルファロメオ]]と統括され、[[高級車]]を製造・販売している。近年は、世界市場で戦う量産ラグジュアリーブランドへの変化を目指し、これまでの少量生産から一転した拡大戦略を図っている。
 
2005年には、かつてライバルだったアルファロメオと統合され、世界市場で戦う量産ラグジュアリーブランドへの変化を目指し、これまでの少量生産から一転した拡大戦略を図っている。人気の高級[[スポーツ・ユーティリティ・ビークル|SUV]]市場にむけて[[マセラティ・レヴァンテ|レヴァンテ]]を投入するなど、ラインナップを広げた結果、全世界の新車販売台数は2017年に5万台を突破した<ref>{{Cite news |title=マセラティ世界販売、SUV好調で22%増…日本は46%増 2017年 |url=https://response.jp/article/2018/02/05/305659.html |newspaper=レスポンス |publisher= |date=2018-02-05 |accessdate=2019-08-20}}</ref>。2020年代に向けては[[電気自動車|EV]]や[[プラグインハイブリッド|PHV]]など電動化を進める計画を発表している<ref>{{Cite news |title=マセラティ新車情報 新型スモールSUV フルEVのスーパーカーも |url=https://www.autocar.jp/news/2018/06/05/294887/ |newspaper=AUTOCAR |publisher= |date=2018-06-05 |accessdate=2019-08-20}}</ref>。
 
== 紋章 ==