「インパール作戦」の版間の差分

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(→‎戦後: に戦跡ガイド会社があることなどを追記)
 
== 連合軍の作戦立案の経緯 ==
連合軍の場合、欧州[[ヨーロッパ]]戦線の戦況を睨みつつ、[[東南アジア]]に向けての反攻をどこで実施するかと言う観点から、多岐にわたる選択肢が議論された。
 
[[1942年]](昭和17年)3月の[[アメリカ合衆国大統領]][[フランクリン・ルーズベルト]]米国大統領の提案により英米両国は4月にその担当戦域を分割して、英国[[イギリス]]の担当は[[インド洋]][[中東]]および[[地中海]]と決められた。インド洋中東での指揮権については、陸海空三軍指揮官の権限は同格扱いであったが、陸軍指揮官が指導的立場にあることは認められた。
 
その後、戦局の進展に応じて幾つかの計画が立てられては消えていった。英国イギリスは日本軍にビルマから駆逐された当初はビルマ地域での反攻計画に積極的だったが、やがて欧州ヨーロッパ反攻を重視し1943年秋には消極的に変わっていた<ref name="NIDS-2002-arakawa-p151">英国の姿勢転換、マウントバッテンへの命令、日本側の侵攻作戦把握については、荒川(2003年)、151頁。</ref>。
 
=== ビルマ作戦 ===
[[1943年]](昭和18年)に構想されたビルマへの反攻作戦には、ANAKIMという呼称が与えられた。[[中華民国軍]]の指導に当たっていた[[アメリカ陸軍]]の[[ジョセフ・スティルウェル|スティルウェル]]中将はこの計画に強い関心を持っていた。1943年5月の[[第3回ワシントン会談]]に参加したスティルウェルは持論を説き、[[アメリカ海軍]]の[[アーネスト・キング|キング]]作戦本部長も同調したが、スティルウェルが英国側に嫌悪されていたことや、[[ウィンストン・チャーチル]]英国首相が必要性を認めなかったこと、身内の米陸軍からも[[ジョージ・C・マーシャル|マーシャル]]参謀総長が実施不能と否定的見解を示したことでお蔵入りした<ref>新見(1984年)、432-433頁。</ref>。
 
ビルマで攻勢を実施する利点としては、[[中国本土]]で航空基地を作戦させていた関係上、政治的には魅力のあるものと映り、ルーズベルト大統領の側近には[[ケベック会談|第1回ケベック会談]]の際にこの話を蒸し返す者が居たが、そのための兵力を調達しなければならないのは[[イギリス]]であったので、欧州反攻を重視していた英国イギリスは反対していた。
 
=== 東南アジア指揮地域の分離 ===