「インパール作戦」の版間の差分

m
 
== 日本軍敗北の責任 ==
インパール作戦の失敗後、日本帝国陸軍はビルマ方面軍の高級指揮官・参謀長らの敗戦責任を問い、そのほとんどを更迭した<ref name="ito197">伊藤(1973年)、197頁。</ref>。牟田口第15軍司令官も軍司令官を解任され、[[役種|予備役]]に編入される懲罰人事を受けた<ref name="ito197" />。独断撤退を行った佐藤中将は作戦当時「[[心身喪失]]」であったと言う診断が下され、軍法会議で刑事責任を追及されることなく、やはり予備役編入とされた。佐藤中将自身は軍法会議で撤退の是非を論じることを望んでいたが、河辺方面軍司令官は、[[親任官#親任官(武官)|親補職]]の師団長を軍法会議にかけるには天皇の親裁を要することから、不祥事が重大化することを懸念して軍法会議を回避した<ref>伊藤(1973年)、186-187頁。</ref>。{{要出典範囲|責を問う軍法会議が開催されることで、軍法会議の場で撤退理由をはじめとするインパール作戦失敗の要因が明らかにされることと、その責任追及が第15軍、ビルマ方面軍などの上部組織や軍中枢に及ぶことを回避したとも言われる|date=2013年5月}}<!--何かあるとは思うけど手元の本には無いので-->。河辺中将は方面軍司令官を退いたものの、翌1945年3月に大将に昇進し、終戦時には[[第1総軍 (日本軍)|第1総軍]]司令官の要職にあった
 
独断撤退を行った佐藤中将は、作戦当時「[[心身喪失]]」であったと言う診断が下され、軍法会議で刑事責任を追及されることなく、やはり予備役編入とされた。佐藤中将自身は軍法会議で撤退の是非を論じることを望んでいたが、河辺方面軍司令官は、[[親任官#親任官(武官)|親補職]]の師団長を軍法会議にかけるには、[[昭和天皇]]の親裁を要することから、不祥事が重大化することを懸念して、軍法会議を回避した<ref>伊藤(1973年)、186-187頁。</ref>。
戦後、日本軍敗北の責任は主に牟田口にあるとする評価が支配的である<ref>伊藤(1973年)、99頁。</ref>。この点、[[伊藤正徳 (軍事評論家)|伊藤正徳]]は、牟田口が作戦の主唱者であった以上は責任甚大であるのは当然としたうえで、牟田口一人に罪を着せるのは不公平であると述べる。仮に牟田口が暴走したのだとしても、これを断固として押さえつけるのが上層部の責務であって、インパール作戦の無謀の責任は牟田口と大本営が少なくとも五分と五分<ref>伊藤(1973年)、199頁。</ref>、あるいは引きずられた上司の罪をさらに重いものと見るのが公平であると評している<ref>伊藤(1973年)、207頁。</ref>。
 
{{要出典範囲|責任を問う軍法会議が開催されることで、軍法会議の場で撤退理由を始めとする、インパール作戦失敗の要因が明らかにされることと、その責任追及が第15軍、ビルマ方面軍などの上部組織や軍中枢に及ぶことを回避したとも言われる|date=2013年5月}}<!--何かあるとは思うけど手元の本には無いので-->。河辺中将は方面軍司令官を退いたものの、翌1945年(昭和20年)3月に陸軍大将に昇進し、終戦時には[[第1総軍 (日本軍)|第1総軍]]司令官の要職にあった。
[[戸部良一]]は『[[失敗の本質]]』において、インパール作戦で杜撰な計画が実行された原因について、牟田口軍司令官や河辺方面軍司令官の個人的性格も関連しているが、より重要なのは「人情」という名の人間関係・組織内融和が優先されて組織の合理性が削がれた点にあると主張している<ref>戸部(1991年)、176-177頁。</ref>。
 
戦後、日本軍敗北の責任は主に、[[牟田口廉也]]にあったとする評価が支配的である<ref>伊藤(1973年)、99頁。</ref>。この点、[[伊藤正徳 (軍事評論家)|伊藤正徳]]は、牟田口が作戦の主唱者であった以上責任甚大であるのは当然としたうえで、牟田口一人に罪を着せるのは不公平であると述べる。仮に牟田口が暴走したのだとしても、これを断固として押さえつけるのが上層部の責務であって、インパール作戦の無謀の責任は牟田口と大本営が少なくとも五分と五分<ref>伊藤(1973年)、199頁。</ref>、あるいは引きずられた上司の罪をさら、更に重いものと見るのが公平であると評している<ref>伊藤(1973年)、207頁。</ref>。
 
[[戸部良一]]は『[[失敗の本質]]』において、インパール作戦で杜撰な計画が実行された原因について、牟田口軍司令官や河辺方面軍司令官の個人的性格も関連しているが、より重要なのは「人情」という名の人間関係・組織内融和が優先されて組織の合理性が削がれた点にあると主張指摘している<ref>戸部(1991年)、176-177頁。</ref>。
<!--
== 一般的な認識とは異なる見解 ==