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マトソンは[[サンフランシスコ大学]]時代から[[カレッジフットボール]]のスター[[ランニングバック]]であった。3年間で3166ヤードの[[全米大学体育協会|NCAA]]レコードを樹立。特に最終学年の1951年には1,566ヤードを走り21タッチダウンの活躍を見せた。1952年の[[NFLドラフト]]の1巡目全体3位で[[アリゾナ・カージナルス|シカゴ・カージナルス]]から指名された。
 
マトソンはその際に1952年[[1952年ヘルシンキオリンピックのアメリカ合衆国選手団|ヘルシンキオリンピックのアメリカの陸上チームの代表]]にも選ばれていたため、プロとしての契約は遅れることとなった。ヘルシンキオリンピックでは、[[400メートル競走|400m]]で銅メダル、[[1600メートルリレー走|4×400mリレー]]でも銀メダルを獲得している。オリンピック後、カージナルス入団後は1年目から活躍。1953年には[[兵役]]のためチームを離れるが、1954年にはチームに復帰。その後[[セントルイス・ラムズ|ロサンゼルス・ラムズ]]、[[デトロイト・ライオンズ]]、[[フィラデルフィア・イーグルス]]で14年間のプロ生活で[[プロボウル]]に5回選出(1952、1954-1957)、1956年にはプロボウルMVPにも選出されている。1966年に現役を引退。1972年プロフットボール殿堂入りを果たした。
 
NFLではラッシングで5,173ヤード、レシービング222回で3,285ヤード、リターンをあわせると12,844ヤードを獲得した。またラッシングで40回、レシービングで23回、リターンで9回、ファンブルリカバーで1回のタッチダウンを獲得した。