「二階堂トクヨ」の版間の差分

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暫定的に加筆。
少し追記。
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* 東京女高師教授時代には、体操の授業を見学に来た校長団一行が小声で話していたところ、「出て行って下さい」の一言で黙らせた{{sfn|西村|1983|p=175}}。生徒の精神統一を欠くから、というのが理由であった{{sfn|西村|1983|p=175}}。トクヨの一声に一行は面食らったが、理由を聞いて納得して帰って行った{{sfn|西村|1983|p=175}}。
 
トクヨの声は、体育指導や日常生活でしばしば雷が落ちたような大声となった{{sfn|西村|1983|p=241}}。養女の美喜子は、トクヨを知る人で怒られた経験がない人はおそらくあるまいと記し、調査に来た[[特別高等警察]]を殴りつけたという「武勇伝」を披露している{{sfn|西村|1983|p=241}}。特に弁解や不正、失礼なことに関しては厳しく叱りつけ、「お疲れ様でした」{{#tag:ref|「このくらいで疲れる体ではないので、お疲れ様とは言わないこと」とトクヨは言い返した{{sfn|西村|1983|p=242}}。|group="注"}}や「ありがとうございました」{{#tag:ref|何度もありがとうと言うと「前にも言ったのに、言い直しをしなければならないほど、いい加減なことを言っていたのか」と怒った{{sfn|西村|1983|p=242}}。|group="注"}}と声をかけられても叱ることがあった{{sfn|西村|1983|pp=242-243}}。それでも教え子はトクヨの愛情を感じて心服してしまい、トクヨに反発したり反抗心を持ったりすることはなかった{{sfn|西村|1983|p=242}}。
 
==== 語録 ====
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トクヨがイギリスに出発した時には、道明は横浜港まで見送りに行った{{sfn|西村|1983|p=1}}。キングスフィールド体操専門学校でオスターバーグの教育を受けたトクヨは、オスターバーグの人格に接し、そこに送ってくれた道明に深く感謝し、トクヨの著書『足掛四年』にも道明への感謝の言葉が綴られている{{sfn|西村|1983|pp=107-108}}。オスターバーグは道明のことを覚えており、「ヤパニースボーイ{{#tag:ref|永井道明のことを「ヤパニースボーイ」と呼んでいた{{sfn|西村|1983|p=107}}。スウェーデン出身のオスターバーグは、[[スウェーデン語]]なまりの英語を話し、''“Japanese boy”''を「ヤパニースボーイ」と発音していた{{sfn|西村|1983|p=107}}。|group="注"}}が日本の体育界を支配しているんだから、誠に結構だ」とトクヨに言った{{sfn|西村|1983|p=107}}。またオスターバーグと道明は、トクヨ留学中に手紙でやり取りしていた{{sfn|西村|1983|p=108}}。
 
留学経験を胸に帰国したトクヨを待っていたのは、皮肉にも道明との対立であった{{sfn|西村|1983|p=108}}{{sfn|穴水|2001|p=19}}。留学先で見つけた理想とする教育を実践しようとし、自説を曲げなかったことがその原因である{{sfn|西村|1983|p=236}}。道明はトクヨに、自身が骨を折って策定し、スウェーデン体操を軸とした『学校体操教授要目』を普及させてくれることを期待しており、実際トクヨもスウェーデン体操を学び、体操遊戯講習会の講師として日本中にスウェーデン体操を広めることに尽力した{{sfn|西村|1983|pp=180-183}}{{sfn|穴水|2001|pp=19-20}}。しかし、道明の言うスウェーデン体操はドリル中心の味気ない体操であり、トクヨが学んだオスターバーグ式の生き生きとした体操とは異なっていた{{sfn|西村|1983|p=183}}。道明の立場からすれば、自身が『学校体操教授要目』を普及させるために地方に出張している間に、トクヨが勝手にイギリス式の体操を教えているように見え、裏切られたという思いであった{{sfn|西村|1983|p=184}}。最初は小さなすれ違いから始まったが{{sfn|穴水|2001|p=19}}、ダンスに対する考え方や体操服の採用などトクヨと道明はことごとく衝突するようになり{{sfn|西村|1983|p=184}}、留学前から同僚に妬まれていたトクヨ{{sfn|穴水|2001|p=82}}は孤立無援となってしまった{{sfn|西村|1983|p=185}}。
 
道明とトクヨの対立の諸点をまとめると次のようになる。