「両国 (東京都)」の版間の差分

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'''両国'''(りょうごく)は、[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]]・[[墨田区]]両区の[[両国橋]]周辺一帯。また、墨田区の町名のひとつである。
 
== 両国橋 ==
[[江戸時代]]の[[1659年]]([[万治]]2年)[[12月13日]]に架橋され、当初幕府によって'''大橋'''と名づけられたが、両国橋と通称された。これにより両国橋東岸の地域、現在の両国が[[神田 (千代田区)|神田]]、[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]方面と直接結ばれ、以後[[江戸]]が隅田川をはさんで東側に拡大する足がかりとなった。現在の両国を含む北側が[[本所 (墨田区)|本所]]、両国よりも南側が[[深川 (江東区)|深川]]であり、双方とも江戸時代の新興住宅地域に当たる。[[1686年]]([[貞享|貞享3年]])(一説によれば[[寛永|寛永年間]]([[1622年]]-[[1643年]]))に、のちの[[葛飾郡|南葛飾郡]]が[[武蔵国]]へ編入されるまでは隅田川(当時は大川)が[[下総国]]と武蔵国の国境でため、大橋(両国橋)はその両方の国に跨っていた。これが'''両国'''橋の名称の由来となっている。
[[江戸時代]]の[[1659年]]([[万治]]2年)[[12月13日]]に架橋され、当初幕府によって'''大橋'''と名づけられたが、両国橋と通称された。
これにより両国橋東岸の地域、現在の両国が[[神田 (千代田区)|神田]]、[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]方面と直接結ばれ、以後[[江戸]]が隅田川をはさんで東側に拡大する足がかりとなった。現在の両国を含む北側が[[本所 (墨田区)|本所]]、両国よりも南側が[[深川 (江東区)|深川]]であり、双方とも江戸時代の新興住宅地域にあたる。
[[1686年]]([[貞享|貞享3年]])(一説によれば[[寛永|寛永年間]]([[1622年]]-[[1643年]]))に、のちの[[葛飾郡|南葛飾郡]]が[[武蔵国]]へ編入されるまでは隅田川(当時は大川)が[[下総国]]と武蔵国の国境であったため、大橋(両国橋)はその両方の国に跨っていた。これが'''両国'''橋の名称の由来となっている。
 
== 中央区側の両国(日本橋両国) ==
{{seealsoSee also|東日本橋}}
 
=== 歴史 ===
おおざっぱに言えば以下のような経緯を経て、隅田川の西岸の名称は両国、日本橋両国、[[東日本橋]]と変遷し、一方東岸は向両国、本所東両国、両国と変遷したため、かつては隅田川西岸にあった両国が東岸へと移動した。
 
本来、両国とは、隅田川西側の武蔵国側の称である。[[元禄]]時代([[1688年]])からの[[本所 (墨田区)|本所]][[深川 (江東区)|深川]]開発以降、現在の両国である旧下総国側(墨田区側)を東両国(向両国・むこうりょうごくとも)と呼ぶようになった。[[江戸時代|江戸期]]には、後の東日本橋地区に留まらず、近隣の[[日本橋馬喰町]]、[[日本橋横山町]]、[[日本橋久松町]]なども含めて、隅田川の西側の地区が両国の名称を使用し、または両国を冠称していた。本所、深川は旧来の[[下町]]([[神田 (千代田区)|神田]]、[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]、[[京橋 (東京都中央区)|京橋]])からは「川向こう」であり、西側が本家の両国、川向こうは東両国(向両国)だった。<!--そのことは両国近隣に関わらず、明治期以降正式採用された町名から窺い知れる([[隅田川]]を挟んで、[[東日本橋|日本橋両国]]に対しての本所東両国、[[駒形|浅草駒形]]に対しての[[東駒形|本所東駒形]]など)。-->[[東京都電車|路面電車]]の「両国停留所」、「両国郵便局」など、西岸にあるものに「両国」の名称が使用されるのも、その名残である
[[江戸時代|江戸期]]には、後の東日本橋地区に留まらず、近隣の[[日本橋馬喰町]]、[[日本橋横山町]]、[[日本橋久松町]]なども含めて、隅田川の西側の地区が両国の名称を使用し、または両国を冠称していた。
本所、深川は旧来の[[下町]]([[神田 (千代田区)|神田]]、[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]、[[京橋 (東京都中央区)|京橋]])からは「川向こう」であり、西側が本家の両国、川向こうは東両国(向両国)だった。
<!--そのことは両国近隣に関わらず、明治期以降正式採用された町名からうかがい知れる([[隅田川]]を挟んで、[[東日本橋|日本橋両国]]に対しての本所東両国、[[駒形|浅草駒形]]に対しての[[東駒形|本所東駒形]]など)。-->
[[東京都電車|路面電車]]の「両国停留所」、「両国郵便局」など、西岸にあるものに「両国」の名称が使用されるのも、その名残である。
 
[[1878年]]([[明治]]11年)の[[東京15区|東京市15区]]創設後、西側を日本橋両国、東側を本所東両国と言うようになった。中央区側を西両国と表現するのは俗称である。その後、[[両国駅]]の開業や[[両国国技館]]の開館に伴い、両国という地名は次第に東両国を指すようになっていった。[[1971年]]には[[住居表示]]の実施に伴い、中央区の日本橋両国は周囲の日本橋米沢町、日本橋薬研堀町などと併せ[[東日本橋]]と改められ、現在は中央区東日本橋二丁目となっている。一方、墨田区側はすでに[[1967年]]、東両国から両国へ改称されている。
その後、[[両国駅]]の開業や[[両国国技館]]の開館にともない、両国という地名は次第に東両国を指すようになっていった。[[1971年]]には[[住居表示]]の実施にともない、中央区の日本橋両国は周囲の日本橋米沢町、日本橋薬研堀町などとあわせ[[東日本橋]]と改められ、現在は中央区東日本橋二丁目となっている。一方、墨田区側はすでに[[1967年]]、東両国から両国へ改称されている。
 
東日本橋地区内には東日本橋二丁目両国町会、東日本橋両国[[商店街]]が存在した。現在は共に名称を変更し、東日本橋二丁目町会、東日本橋やげん堀商店会(2004年前後)となった。
 
=== 両国広小路 ===
両国広小路は、両国橋西詰めの、現在の中央区東日本橋に設けられた火除地(広場)である。[[明暦の大火]]の教訓を元に整備され、[[江戸三大広小路]]のひとつにげられる。[[見世物小屋|見世物]]などの小屋が立ち並んで賑わった。現在、両国橋西[[交差点]]付近に、「両国広小路記念碑」が設けられている。
 
なお、墨田区側のJR[[両国駅]]前には、[[2013年]]に「両国駅広小路」という広場が整備されているが、かつての両国広小路とは位置が異なる。
{{main|両国広小路}}
 
詳しくは[[両国広小路]]の項を参照のこと。
 
== 両国花火 ==
{{seealsoSee also|隅田川花火大会}}
[[1732年]]([[享保]]17年)に起こった全国的な大飢饉(いわゆる[[享保の大飢饉]])や江戸における[[コレラ]]の流行を受けて、八代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川吉宗]]が死者の弔いと悪病退散を願って両国にて水神祭と[[施餓鬼]]を行った。この際に[[花火]]を打ち上げて川開きを同時に行ったことが両国花火大会の始まりといわれている。[[1733年]]([[享保]]18年)5月のことであった。担当した花火師が両国の篠原弥兵衛、有名な「[[鍵屋]]」六代目である。後にこの鍵屋から暖簾分けした「[[玉屋]]」が加わり、それぞれ両国を挟んで上流側・下流側を担当した。花火を打ち上げるたびに「たまやー かぎやー」という掛け声がかかるのは、この競演に由来する。
 
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== 両国(町名) ==
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[[東京都]][[墨田区]]の地名。現在の両国は旧[[本所区]]にたる本所地域内である。
 
=== 地理 ===
[[本所区|本所地域]]の西側に位置し、[[中央区 (東京都)|中央区]]([[東日本橋]])、[[台東区]]([[柳橋 (台東区)|柳橋]])との区境にたり、区分は一丁目から四丁目に至る。
 
; [[川|河川]]・[[橋]]
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=== 歴史 ===
[[江戸時代|江戸期]]には「'''向両国'''」(むこうりょごく)と呼ばれた地区である。[[本所区]]時代の1929年には東両国の町名が成立した。[[住居表示]]実施の1967年には、従来の両国(中央区側の両国)は日本橋両国となっていて、単なる「両国」という町名がいていたため、この地域の町名を両国とした。
 
吉良邸に[[赤穂浪士]]が討ち入った[[赤穂事件]]の舞台として知られている。現在そのごく一部が吉良邸跡として保存され、区立[[本所松坂町公園]]となっている。
 
近代、墨田区側の両国が全国に知られているのは[[両国国技館]]によるところが大きいと思われる。[[1909年]]に完成し[[1944年]]まで使用された旧両国国技館は、両国二丁目の[[回向院]]の旧境内にあった。その後、[[蔵前国技館]]への移転を経て、[[1985年]]に新しく完成した現両国国技館は、[[両国駅]]の北側、墨田区[[横網]]に位置している。
 
* [[1702年]](元禄15年)- [[赤穂事件]]が起こる。
* [[1967年]](昭和42年)- [[住居表示]]の実施により、東両国から両国へ改称された。
 
=== 世帯数と人口 ===
[[2017年]](平成29年)[[12月1日]]現在の世帯数と人口は以下の通りである<ref name="population"></ref>。
{| class="wikitable"
![[丁目]]!![[世帯|世帯数]]!![[人口]]
|-
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=== 小・中学校の学区 ===
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる<ref name="school">{{Cite web |url=http://www.city.sumida.lg.jp/kosodate_kyouiku/kyouiku/school/gakkou_kihon/tuugaku_kuiki.html |title=通学区域 |publisher=墨田区 |date=2017-04-01 |accessdate=2017-12-27}}</ref>。
{| class="wikitable"
!丁目!!番地!!小学校!!中学校
|-
||両国一丁目||全域||rowspan=4|[[墨田区立両国小学校]]||rowspan=4|[[墨田区立両国中学校]]
|-
||両国二丁目||全域
|-
||両国三丁目||全域
|-
||両国四丁目||全域
|}
 
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** 元[[日本放送協会|NHK]][[アナウンサー]]。長年[[テレビ]]・[[ラジオ]][[大相撲]]実況を担当した。両国に生まれ育つ。
* [[加藤晴久]]
** 1935年生まれ。[[東京大学大学院総合文化研究科・教養学部|東京大学教養学部]]で27年間教鞭を執る。現在、東京大学・[[恵泉女学園大学]]名誉教授。フランス語教育振興協会副理事長。NHKのテレビやラジオのフランス語講座の講師を務めた。1996年世界110か国の[[フランス語]]教員が参加した国際会議を組織した。[[政府 (フランス第五共和政)|フランス政府]]から[[教育功労章]]、[[芸術文化勲章]]を授与されている。
* [[高野人母美]]
** プロボクサー兼ファッションモデル。両国育ち。
 
=== 大江戸両国・伝統祭 ===
2006年から毎年10月に大江戸両国からくり祭が開催され、各種のからくりが展示されるほか、江戸手妻(てづま)や大道芸が披露された。2011年にはより広い演目を対象とするために「大江戸両国・伝統祭」と名称変更し、江戸手妻、殺陣、江戸芸かっぽれ、相撲甚句、薩摩琵琶、大道芸、その他が楽しめる祭りへと変わった<ref>[http://karakurimaturi.edoblog.net/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%A1%E5%9B%BD%E3%83%BB%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E7%A5%AD/ 大江戸両国・伝統祭公式BLOGのパンフレット]</ref>
2011年にはより広い演目を対象とするために「大江戸両国・伝統祭」と名称変更し、江戸手妻、殺陣、江戸芸かっぽれ、相撲甚句、薩摩琵琶、大道芸、その他が楽しめる祭りへと変わった<ref>[http://karakurimaturi.edoblog.net/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%A1%E5%9B%BD%E3%83%BB%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E7%A5%AD/ 大江戸両国・伝統祭公式BLOGのパンフレット]</ref>。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
<references/>
 
== 関連項目 ==