「ミュンヘン一揆」の版間の差分

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== ナチス党の躍進 ==
一揆が簡単に制圧された経験でヒトラーは武力革命に見切りをつけ、「ナチス党の未来は、投票箱の中にある」として、言論・演説・選挙といった民主的手段による政権奪取に軸足を移してゆく。ナチスには11月9日にバイエルン州、11月23日に全ドイツにおける禁止命令が下ったが、無罪になったルーデンドルフ、すぐに仮釈放されたレーム、逮捕を免れていたグレゴール・シュトラッサーらが「[[国家社会主義自由党]]」の名で偽装政党を立ち上げ、1924年[[5月4日]]の総選挙には32議席を獲得した。さらに[[ドイツ民族自由党|ドイツ人民自由党]]と合流して「[[国家社会主義自由運動]]」となった。ドイツ闘争連盟の軍事組織はレームがフロントリングの名で維持し、後に[[フロントバン]]となった後に、再結成された突撃隊となる。しかしローゼンベルク派と北ドイツに勢力を持つシュトラッサー派、そしてハンフシュテングルやドレクスラーらの対立は激化し、完全な主導権を握るものは現れなかった。これは獄中のヒトラーが、自らの影響力を保持するため、党内の抗争を意図的に放置していたからといわれている。
 
一揆と裁判を通して、ナチスはバイエルン州の地方政党からドイツ全国に影響を与える政党へと成長した形となった。[[12月7日]]の総選挙では14議席と惨敗したが、これは[[レンテンマルク]]の発行でインフレが落ち着いた事、[[ドーズ案]]の受入が決まり、情勢がやや落ち着きを取り戻したことも一因とされる。
 
ヒトラー保釈後の1925年には州法相[[フランツ・ギュルトナー]]の支援もあり、ナチスは再結党を許可された。[[2月26日]]、ナチスはビュルガーブロイケラーで党新結成集会と銘打った集会を開催した。この集会には4000人の観衆が集まり、予想以上の影響力に驚いたバイエルン州政府は今後2年間ヒトラーの講演を禁止している。