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== 経歴 ==
=== 生い立ち
アメリカ統治時代の1946年9月1日に[[慶尚南道]][[金海市|金海郡(現
「オピニオン」商業高校|author= |newspaper= 東亜日報|date= 2002-12-20|url= http://japan.donga.com/srv/service.php3?biid=2002122120548&path_dir=20021221|accessdate=}}</ref>、卒業後に「三海工業」という小さな魚網会社に就職するが、その待遇に失望して一カ月半で退職。[[司法試験]]への挑戦を決意する<ref>盧 武鉉 (原著) [[青柳純一]] (翻訳)『韓国の希望 盧武鉉の夢』、115-116頁及び134頁</ref>。盧武鉉は自著に貧しさ故に高卒で社会に出たこと、就職に失敗して独学で弁護士の道を志すようになったことは、盧武鉉の政治家人生における一種の稀少価値となったと記している<ref name="jicho">盧 武鉉 (原著) [[青柳純一]] (翻訳)『韓国の希望 盧武鉉の夢』、122頁。</ref>。当時、高卒では司法試験を受ける資格が与えられなかったが、故郷に帰って村外れのぼろ家に手を加えて「磨玉堂」と名づけて勉強の場とし<ref name="dare" />、日雇い労働をしながら[[1966年]]11月に資格試験(司法及び行政要員予備試験)に、[[1971年]]に三級公務員の一次試験に合格。1968年から1971年の[[徴兵制度#大韓民国|兵役]]をはさんで勉強を続け、[[1975年]]に29歳で第17回司法試験に合格した後、盧に他の道が開けた<ref name="dare" />。
[[司法研修院]]で研修を終えた後、[[1977年]][[大田広域市|大田]]地方法院(裁判所)判事に就任。[[1978年]][[判事]]を辞めて弁護士事務所を開業。当初は登記業務・不動産・租税関連の訴訟を専門とし、ヨットが趣味で[[琵琶湖]]でのイベントに参加するなど、釜山でも稼ぎのいいブルジョア弁護士の盧弁(ノビョン、盧弁護士)として知られていた<ref>青柳純一『韓国現代史』社会評論社、158頁</ref><ref name="dare" />。
しかし[[1981年]]に別の弁護士の代理として[[釜林事件]]の弁護を引き受けて学生運動に関わった事が転機となり、徐々に政治
=== 政界進出 ===
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