「ウィリアム・フォーブス=センピル」の版間の差分

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1941年6月までに保安局は、ロンドンと三菱、そして東京の間で、センピルに対して報酬が支払われていることを示唆する情報がやり取りされているのを傍受した。「我々のロンドン駐在武官にとってのセンピル卿の利用価値を考えれば、報酬を支払い続けるべきである」<ref name=Indp1173730/> さらなる調査の末、保安局はセンピルが[[艦隊航空隊]]の航空機に関する極秘情報を渡していると疑うようになった。この問題は[[司法長官|法務長官]]および{{仮リンク|公訴局長官|en|Director of Public Prosecutions}}に回された。しかしまたも法務長官は、訴追に反対した。1941年9月5日にセンピルは{{仮リンク|第五海軍卿|en|Fifth Sea Lord}}との会合に出席し、個人的に厳しい警告を受けた<ref name=Indp1173730/>。
 
センピルはまた、イギリス政府に関する詳細な情報をおそらく渡していた。1941年8月に、[[ニューファンドランド島]]沖の戦艦[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)|プリンス・オブ・ウェールズ]]艦上で、イギリスの[[ウィンストン・チャーチル]][[イギリスの首相|首相]]とアメリカの[[フランクリン・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が日本の軍事的脅威について議論する会合を持った<ref name=BBC2FoSGB/>。その直後にロンドンの日本大使館と東京の間での通信が、この頃に本格的な活動をしてした[[ブレッチリー・パーク]]にある[[政府暗号学校]]の暗号解読部隊によって傍受された。解読された通信文は会議の記録であった。これがチャーチルに渡されると驚いて、「きわめて正確なものだ」とした<ref name=BBC2FoSGB/>。3か月後、チャーチルの個人的な予定や側近に関する多くの情報がロンドンの日本大使館から東京の外務省へ送られているところが傍受された。チャーチルと[[アンソニー・イーデン]]は個人的に相談し、こうした情報漏洩源となりうるのは2人だけであると結論付けた。それはマクグラス司令官中佐とセンピル卿であった<ref name=BBC2FoSGB/>。
 
1941年10月9日、チャーチルの署名入りメモで「まだ時間があるうちに、彼を追い出せ」と指示した。翌週、海軍本部はセンピルに辞任するよう求め、そうでなければ解任すると告げた。しかしセンピルが公式に抗議し、チャーチルは指示を撤回した。チャーチルは海軍本部に対して、「センピル卿が任務を辞任すべきかについて熟考していなかったが、海軍本部以外のどこかに割り当てるべきである」と述べた<ref name=Indp1173730/>。その後、チャーチルの側近の{{仮リンク|デスモンド・モートン (公務員)|en|Desmond Morton (civil servant)|label=デスモンド・モートン}}からの1941年10月17日のメモで、「[[第一海軍卿]]は、彼にスコットランド北部での職務を提案して欲しい。スウィントン卿に対して、保安局が必要な事前の注意ができるように通知するようにと指示した」と新たな地位を示した<ref name=Indp1173730/>。