「二階堂トクヨ」の版間の差分

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ダンス追記。
体育理論を中心に加筆。
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授業では、イギリスから持ち帰ったメイポールダンス、[[クリケット]]、[[ホッケー]]{{#tag:ref|トクヨは日本で初めての女子スポーツとしてクリケットとホッケーを持ち帰った{{sfn|西村|1983|p=178}}。特にホッケーは体専時代に校技と呼べるほど盛んで、対外試合では常に上位にあった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=64}}。|group="注"}}を取り入れ、生徒を[[肋木]]にぶら下げておいてゆっくりと説明するのが常であった{{sfn|西村|1983|pp=174-179}}。この頃の体操指導は、上司の永井道明が苦労してまとめ上げた『学校体操教授要目』に従うことが求められていたが、その体操はドリルを中心とした味気ないものであり、トクヨは要目よりもオスターバーグから習ったイギリス式の生き生きとした体操を強引に実施していた{{sfn|西村|1983|pp=182-183}}。また、永井はダンスの価値をほとんど認めておらず、女高師の[[体操着]]も永井受け持ちのクラスが[[ブルマー]]だったのに対し、トクヨのクラスはキングスフィールド体操専門学校と同じ[[チュニック]]を採用するなど、永井とトクヨの間に対立が生じていった{{sfn|西村|1983|p=184}}。永井は自身の後継者としてトクヨに期待していただけに、裏切られた格好となり、トクヨは体操の資格がないクラスに配置転換されてしまった{{sfn|西村|1983|pp=184-185}}。さらに永井との対立は、東京女高師でのトクヨの孤立に至り、ノイローゼとなって[[鎌倉]]に引きこもってしまったこともある{{sfn|西村|1983|p=185}}。この時は安井てつの助力により、無事に東京女高師に復帰した{{sfn|西村|1983|p=185}}。一方で、オスターバーグからかけられた「ここ(キングスフィールド体操専門学校)にちなみを持ったクイーンスフィールド体操専門学校を建てるように祈ります」の言葉を胸に抱き、学校を建てる構想を温め続けていた{{sfn|西村|1983|p=108, 185}}。
 
まず、トクヨは1919年(大正8年)の体操女教員協議会(東京女高師で開催)の場で女子の体操教師120人に呼び掛けて「全国体操女教員会」(後に体育婦人同志会に改称)を立ち上げ、自ら会長に就任した{{sfn|西村|1983|p=194}}。全国体操女教員会を率いたトクヨは、[[スウェーデン]]の国立中央体操練習所{{#tag:ref|{{lang-sv|Gymnastiska Centralinstitutet}}{{sfn|頼住|2007|p=379}}、現・スウェーデンスポーツ健康科学大学({{lang-sv|[[:sv:Gymnastik- och idrottshögskolan|Gymnastik- och idrottshögskolan]]}})。スウェーデン体操の創始者・リングが設立した体操指導者養成施設で、永井道明の留学先であった{{sfn|頼住|2007|p=379}}。|group="注"}}やイギリスのキングスフィールド体操専門学校のような体操研究と指導者育成を担う「体育研究所」を設立すべく10万円を目標に寄付を募り始めた{{sfn|西村|1983|pp=193-194}}。しかし[[1921年]](大正10年)に文部[[大臣官房]]が「[[体育研究所]]」の設立議案を策定し、その経費が150万円と発表されると、トクヨは10万円では到底研究所を作れないことを悟り、また「国がいつか建ててくれるなら」と人々に思われたことで3,300円しか募金は集まらなかった{{sfn|西村|1983|pp=193-194}}。そこでトクヨは、構想を温めてきた自身の体操塾を設立する資金に募金を振り向けることに決め、寄付者に理解を求めた{{sfn|西村|1983|pp=194-195}}。次に、1921年(大正10年)5月に[[雑誌]]『わがちから』を創刊し、女子体育の重要性を社会に訴えた{{sfn|西村|1983|p=189}}。『わがちから』は毎号1,000冊印刷し、平均500冊ほど販売していた{{sfn|西村|1983|p=190}}。[[関東大震災]]による中断をはさんで[[1925年]](大正14年)1月に『ちから』に改題、[[1927年]](昭和2年)4月の『ちから第51号』を最後に発行を停止した{{sfn|西村|1983|pp=190-192}}。当初は女子体育専門誌であったものの、次第に二階堂体操塾の宣伝に移行していき、末期の12冊は「体育写真画報」と銘打って完全に塾の紹介だけになっている{{sfn|穴水|2001|p=129}}。雑誌発行業務より追われて、トクヨは講習会や講演会を開く余裕がなくなり、視学委員の仕事も返上した{{sfn|西村|1983|p=190}}。
 
『わがちから』を創刊した1921年(大正10年)には[[正六位]]に叙せられた{{sfn|穴水|2001|p=179}}。
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== 理論と業績 ==
=== 体育観 ===
トクヨの体育に対する考え方は、イギリス留学の前後で180度転換した{{sfn|西村|1983|p=143}}。
 
==== 留学以前の「厳しい体育」 ====
留学前のトクヨは井口から学んだスウェーデン体操と勤務校の近くにあった師団・連隊で見た兵式体操を授業で行っていた{{sfn|西村|1983|p=142}}。トクヨは自身が教えている体操がスウェーデン体操だと思い込んでいたが、実際にはスウェーデン体操のうちの教育体操に相当する領域のみであり、しかも大部分はスウェーデン体操ではなく軍隊式訓練をまねたものであった{{sfn|西村|1983|pp=52-53, 142-144}}。また井口から習ったのはスウェーデン体操の型だけであり、その背後にある理論は学んでいなかった{{sfn|西村|1981|pp=165-166}}。井口の実践するスウェーデン体操が厳しかったこともあり、トクヨも体操とは厳しいものという認識を持っており、授業で教え子が泣くのは当たり前だと考えていた{{sfn|西村|1983|p=142}}。
 
油井小訓導時代に行った授業は、自分が嫌っていた「怒鳴られて馬鹿馬鹿しい」体操そのものであった{{sfn|西村|1983|p=39}}。北国の2月のある寒い日に、川から吹き付ける身を切るような風の中、屋根だけのある雨天体操場で、トクヨは児童をきれいに整列させた{{sfn|西村|1981|pp=155-156}}。少しでも列を乱そうものなら厳しく叱りつけ、続けて徒手体操をさせた{{sfn|西村|1981|pp=155-156}}。防寒が不十分な児童が多く、みな震えており、泣き出す者も現れた{{sfn|西村|1981|p=156}}。トクヨは「そんな弱虫ではいけません」と叱り、泣けば泣くほど児童に厳しく指導した{{sfn|西村|1981|p=156}}。
 
==== 留学以後の体育観 ====
留学以降のトクヨの体育観は「知育・徳育の基礎」、「保護愛育的体育」の2点に特徴づけられる{{sfn|穴水|2001|pp=129-130}}。
留学以降のトクヨの体育観は「保護愛育的体育」に特徴づけられる{{sfn|西村|1981|p=156}}。保護愛育的体育とは、個人の体質・年齢・境遇に応じて、食物・衣服・睡眠・医薬を調整し、自然の[[欲求]]を満たし、衛生的にいたわることを重視した体育である{{sfn|西村|1983|p=146}}。基礎的・一般的な体育は保護愛育的体育を旨とし、一般人や子供には保護愛育的体育を施すことが重要であるとトクヨは強調した{{sfn|西村|1983|p=146}}。また学校体育とは勉学で弱らせた血液循環や呼吸機能を正常に戻し、姿勢を矯正するものであると述べた{{sfn|西村|1983|pp=147-148}}。姿勢の矯正は、留学前から胸を張る動作を中心に実践していたが、これはスウェーデン体操のうちの教育体操の領域に相当するものであり、医療体操の視点は欠如していた{{sfn|西村|1983|p=78, 85, 148-149}}。そこでトクヨは「正しくない姿勢」が教育体操によって矯正のできるものと、医療体操で改善すべきもの{{#tag:ref|例えば生徒が猫背の場合、単純に姿勢が悪いだけならば矯正で対処できるが、筋肉の発育不良が原因であるならば医療体操を行うべきであるとトクヨは考えた{{sfn|西村|1983|p=148}}。|group="注"}}のどちらか見極める必要性を説いた{{sfn|西村|1983|p=148}}。
 
==== 知育・徳育の基礎 ====
トクヨは体育の目的を身体の健康の維持・増進とし、知育・徳育の基礎であると考えた{{sfn|穴水|2001|pp=129-130}}。当時の日本は「優良国民養成」の観点から知育・徳育ともに失敗しており、体育はより悲惨な状況であるとトクヨは認識し、まず第一に体育を充実させることで自然と徳育が高まり、知育も発展すると主張した{{sfn|穴水|2001|p=130}}。これは[[先進国]]の事例をいくらでも挙げて立証できるとトクヨは述べた{{sfn|穴水|2001|p=130}}。
 
言い換えれば「体育を通した[[全人教育]]」であり、女子体育に限定すれば「女性らしい健康な心と体づくり」である{{sfn|勝場・村山|2013|p=23}}。体育を全人教育と捉えたのは、トクヨと対立した永井道明も同じである{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=93}}。
 
==== 保護愛育的体育 ====
保護愛育的体育とは、個人の体質・年齢・境遇に応じて、食物・衣服・睡眠・医薬を調整し、自然の[[欲求]]を満たし、衛生的にいたわることを重視した体育である{{sfn|西村|1983|p=146}}。基礎的・一般的な体育は保護愛育的体育を旨とし、一般人や子供には保護愛育的体育を施すことが重要であるとトクヨは強調した{{sfn|西村|1983|p=146}}。こうした思想に至ったのは、当時の日本では[[幼児]]や[[青年]]の早死に、婦人や一般人の病弱が[[社会問題]]化していたという背景がある{{sfn|穴水|2001|p=130}}。国も体育研究所を設立するに至ったが、強い軍隊を作ることが主目的であり、一般国民の健康と体位向上が必要だとトクヨは考えたのであった{{sfn|西村|1983|pp=146-147}}。
 
留学以降のトクヨの体育観は「保護愛育的体育」に特徴づけられる{{sfn|西村|1981|p=156}}。保護愛育的体育とは、個人の体質・年齢・境遇に応じて、食物・衣服・睡眠・医薬を調整し、自然の[[欲求]]を満たし、衛生的にいたわることを重視した体育である{{sfn|西村|1983|p=146}}。基礎的・一般的な体育は保護愛育的体育を旨とし、一般人や子供には保護愛育的体育を施すことが重要であるとトクヨは強調した{{sfn|西村|1983|p=146}}。また学校体育とは勉学で弱らせた血液循環や呼吸機能を正常に戻し、姿勢を矯正するものであると述べた{{sfn|西村|1983|pp=147-148}}。姿勢の矯正は、留学前から胸を張る動作を中心に実践していたが、これはスウェーデン体操のうちの教育体操の領域に相当するものであり、医療体操の視点は欠如していた{{sfn|西村|1983|p=78, 85, 148-149}}。そこでトクヨは「正しくない姿勢」が教育体操によって矯正のできるものと、医療体操で改善すべきもの{{#tag:ref|例えば生徒が猫背の場合、単純に姿勢が悪いだけならば矯正で対処できるが、筋肉の発育不良が原因であるならば医療体操を行うべきであるとトクヨは考えた{{sfn|西村|1983|p=148}}。|group="注"}}のどちらか見極める必要性を説いた{{sfn|西村|1983|p=148}}。
 
年齢と行うべき体操の対応について、トクヨは下表のように主張している{{sfn|西村|1983|pp=146-147}}。下表の「鍛錬」とは、保護愛育的体育に上乗せして行うものであり、細心の注意と合理的な条件を持って行うべきと説いた{{sfn|西村|1983|p=146}}。
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|老人||自愛的体操
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トクヨの保護愛育の対象は、老若男女を問わず、[[民族]]や[[国籍]]をも超えたものであった{{sfn|穴水|2001|p=141}}。トクヨは二階堂体操塾で、当時日本の統治下にあった地域の出身者を日本人と平等に、というよりもむしろより積極的に愛護した{{sfn|穴水|2001|p=141}}。
 
保護愛育的体育とは言いながらも、トクヨの指導する体操は依然として厳しいものであった{{sfn|西村|1981|p=169}}。トクヨの授業を受けた戸倉ハルによると、特に徒手体操が厳しく、「半前半上屈臂」など独特の名前を付けた体操をさせたという{{sfn|西村|1981|p=169}}。
 
=== 女子体育と女子スポーツ ===
トクヨが留学から帰国した当時の日本では、井口阿くりら先人の努力もむなしく、女子体育は男子体育よりも下位に置かれ、女子体育の標準点や到達点の設定には程遠く、男子体育を1段から数段下げた教材を女子に与えている状態であった{{sfn|穴水|2001|p=132}}。教育現場では、体力的に男子体育の指導が満足にできなくなってきた老教師が女子体育で威張り、トクヨは「この立ちぐされ連」と手厳しい批判を行った{{sfn|穴水|2001|p=132}}。
 
トクヨは女子の身体の構造と機能は、男子より複雑であるから、男子体育よりも女子体育の方が重要であると主張した{{sfn|穴水|2001|pp=132-133}}。したがって男子と同じ体育を女子にさせても成功はないと述べた{{sfn|穴水|2001|p=133}}。その中で女子に適した教材として、トクヨはダンスを採用した{{sfn|穴水|2001|p=138}}。
 
他方で、当時の日本では新しいスポーツが次々と流入し、国際大会に出場する選手も増加傾向にあった{{sfn|穴水|2001|p=130}}。トクヨ自身、イギリスからクリケットとホッケーを日本に持ち帰った<ref name="Osaki"/>{{sfn|西村|1983|p=178}}。しかしながら、当時スポーツができるのはほんの一握りの人々であり、彼らとてスポーツを楽しむという領域にはなく、旧来からの武術的視点や国家意識高揚の視点にとらわれがちであった{{sfn|穴水|2001|p=130}}。このためトクヨは国民体育をある程度まで向上させることが先決で、選手の育成は二の次だと考えていた{{sfn|穴水|2001|p=131}}。その反面、国際大会で日本の女子選手を勝たせたいという思いがあり、「日本選手婦人後援会」なる組織を立ち上げて応援した{{sfn|穴水|2001|p=130}}。勝てば女の面目・母の面目が立つからである{{sfn|穴水|2001|p=130}}。この矛盾はトクヨ自身、よく自覚しているものであった{{sfn|穴水|2001|p=130}}。そして、人見絹枝との出会いを通して、トクヨはアスリート養成に舵を切っていくのであった{{sfn|勝場・村山|2013|pp=24-25}}。
 
=== ダンスの採用 ===
ダンスは、スウェーデン体操のうちの優美体操の領域に相当し、女子に適する運動として積極的に採用した{{sfn|穴水|2001|p=138}}。ダンスそのものは、トクヨのイギリス留学前より日本の体操科の授業で取り入れられており、[[井口阿くり]]によって{{仮リンク|ファーストダンス|en|First dance}}や[[ポルカ]]セリーズなどが持ち込まれていた{{sfn|西村|1983|p=178}}。トクヨ自身、留学前の石川高女教師時代から、カドリールやレディポルカなどの[[ハイカラ]]なダンスを授業や運動会で実施していた{{sfn|西村|1983|p=47}}。明治時代の井口やトクヨによるダンスの普及活動は、日本の学校ダンスの先駆的な取り組みであり、体操的な要素を持ったドイツの諸派のダンスを主に採用していた{{sfn|川畑・浅井 編|1958|pp=187-188}}。留学中にはロンドンの舞踏塾に13回通塾して3人の教師から個人レッスンを受け、[[ホーンパイプ]]、スコッチ[[リール (ダンス)|リール]]、アイリッシュ[[ジグ (音楽)|ジグ]]、ウェルシュダンスなどの稽古に励んだほか、数校でイギリスの民族舞踊などを学んだ{{sfn|西村|1983|pp=96-102}}。
 
トクヨのダンスにおける功績は、ダンスの基本練習として身体練習・表現練習・リズム練習の3要素を初めて実践したことである{{sfn|西村|1983|p=176}}。ダンスのレパートリーは、トクヨ自身の創作ダンスや、学生が習ってきたものに手直しを加えたものをどんどん追加していき、1924年(大正13年)頃には50種類ほどになっていた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=129}}。ファーストやカドリールといった西洋式のダンスのみならず、「[[雨降りお月さん]]」や「[[花嫁人形]]」といった日本の[[童謡]]を用いたもの、[[木曽節]]や[[佐渡おけさ]]といった各地の[[民謡]]を用いたものまで多様であった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=129-131}}。ダンスに使う[[楽曲]]は、古典的な曲から当世の[[流行歌]]まで幅広く取り入れ、歌っても踊っても良い曲を揃えていた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=129}}。
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** 表紙の著者名は「櫻菊女史」{{#tag:ref|桜菊(おうぎく)はトクヨの号([[ペンネーム]])であり、晩年には「桜菊尼」と自称していた{{sfn|西村|1983|p=222}}。また、イギリスから帰国後に自身が教えた生徒を集めて桜菊会を結成した{{sfn|西村|1983|p=222}}。|group="注"}}名義(奥付は「二階堂トクヨ」)。留学の記憶がまだ鮮明に残っている時期に執筆され、読み物風の体裁から、留学経験を生々しく伝えるものである{{sfn|穴水|2001|p=71}}。
* {{cite book|和書|title=男女幼學年兒童に科すべき模擬体操の實際|publisher=東京敎育研究會|date=1918-05-22|page=151|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/939717}}{{全国書誌番号|43009681}}
** 著者名は表紙・奥付ともに「二階堂豊久」名義。留学成果を日本流に翻案したもので{{sfn|穴水|2001|p=132}}、子供のための体操指導例を示した本である{{sfn|西村|1983|p=143}}。児童の自発性を重視しており、[[大正自由教育運動|大正自由教育]]を反映したものとなっている{{sfn|西村|1983|p=157}}。頭の固い専門家からは全く理解されず、「害あって益なし」と酷評された{{sfn|穴水|2001|p=132}}。
 
== 演じた人物 ==
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* {{cite book|和書|author=西村絢子|title=体育に生涯をかけた女性―二階堂トクヨ―|publisher=杏林書院|date=1983-08-01|page=266|ref={{sfnref|西村|1983}}}}{{全国書誌番号|83050977}}
* {{cite journal|和書|author=頼住一昭|date=2007-05|title=体育人と身体感 21 永井 道明(1868〜1950)|journal=体育の科学|publisher=杏林書院|volume=57|issue=5|page=377-381|naid=40015447887|ref={{sfnref|頼住|2007}}}}
* {{Cite book|和書|editor=[[川畑愛義]]・浅井浅一|title=女子の保健体育|publisher=体育の科学社|date=1958-04-15|series=第2版|page=251|ref={{sfnref|川畑・浅井 編|1958}}}}{{全国書誌番号|57004353}}
 
== 関連項目 ==