「成田空港問題」の版間の差分

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このため、再拡張の検討に合わせて[[1961年]]ごろから新たな東京国際空港の候補地についての調査が開始された。
 
[[千葉県]][[東葛飾郡]]浦安町(現・[[浦安市]])沖の埋め立て地や、[[印旛郡]]富里村・八街町(現・[[富里市]]・[[八街市]])、[[茨城県]][[霞ヶ浦]]、[[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]]の[[金沢八景]]沖の埋め立て地などが候補地とされ<ref>[http://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa40/ind110303/004.html 新東京国際空港の建設]</ref>、埋立工事を前提に[[木更津市|木更津]]沖を推す建設省との対立もあったが、[[1963年]][[12月11日]]に運輸省の諮問機関である航空審議会が富里案を最も候補地として適当とした[[ファイル:Narita Internatinal Airport Map.JPG|thumb|400px|三里塚空港全体計画図]]東京湾埋立案を特に強硬に主張していた[[河野一郎]]が急逝した後、[[1965年]][[11月18日]]に関係閣僚懇談会が新空港建設予定地を富里八街に内定し、[[橋本登美三郎]][[官房長官]]が[[記者会見]]を行った。既に候補地では反対運動が起きていたが、当時[[伊豆半島|伊豆]]で療養していた[[友納武人]][[千葉県知事]]も含めて地元への根回しが全くされていない状態であり、突如発表を聞いた富里・八街地区の住民らは大規模な反対運動を展開した。当時は、[[下筌ダム]]建設時に発生した[[蜂の巣城紛争]]の経験がまだ国政に反映されていなかった。{{wikisource|新東京国際空港の位置及び規模について}}反対運動が長引く中で友納千葉県知事と水面下での調整を進めていた[[第1次佐藤内閣 (第1次改造)|佐藤内閣]]([[中村寅太]][[運輸大臣]])は、規模を大幅に縮小して、新空港建設予定地を同県成田市[[三里塚 (成田市)|三里塚]]に変更することを[[1966年]][[6月22日]]に発表し、そのまま[[7月4日]]に[[閣議決定]]した(「新東京国際空港の位置及び規模について」)。これは、[[国有地]]である[[宮内庁下総御料牧場]]や県有林の転用が可能なこと、またその周辺には、[[戦後開拓]]で入植してきた経済力のない農民(その多くは[[満州国]]・[[沖縄県]]からの[[引き揚げ]]者)が多くいたため、民有地の土地取得も容易に進むと考えたからである。
 
富里から三里塚へ変更された過程で国と県の間で交わされたやり取りについては証言が食い違っており、新東京国際空港の事業認定取り消し訴訟の控訴審で「(国と県の)どちらが先に三里塚案を提案したかはわからない」と[[東京高等裁判所]]が1992年10月に結論付けている<ref>大和田武士 鹿野幹夫『「ナリタ」の物語』崙書房、2010年、107-108頁。</ref>。