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'''竹本座'''(たけもとざ)は、[[江戸時代]]中期、大坂[[道頓堀]]にあった[[人形浄瑠璃]]の小屋。[[豊竹座]]と競って栄えた。
 
==歴史==
*[[貞享]]元年(1684)2(1684年)2月、[[竹本義太夫]]が竹本座を創設。興行師の竹屋庄兵衛の出資により、三味線の[[竹沢権右衛門]]、人形遣いの[[吉田三郎兵衛]]、[[辰松八郎兵衛]]らを一座に加えて大阪道頓堀の西に開場した。
*貞享2(1685)(1685年)[[近松門左衛門]]「[[出世景清]]」を上演。
*[[宝永]]2(1705)(1705年)近松「[[用明天皇職人鑑]]」を上演。初代竹田出雲、義太夫が引退、元祖[[竹田出雲]]が座元となる。
*  三宝永3(1706)(1706年)近松「[[碁盤太平記]]」を上演。
*[[正徳 (日本)|正徳]]元年(1711)3(1711年)3月 近松「[[冥途の飛脚]]」を上演。
*  四 (1714)9正徳4年(1714年)9月10日、義太夫死去、63。竹本政太夫(播磨少掾)が座頭となる。
*  五 (1715)正徳5年(1715年)近松「[[国性爺合戦]]」を上演
*[[享保]]3(1718)(1718年)近松「博多小女郎浪枕」を上演
*  五 (1720)享保5年(1720年)近松「[[心中天網島]]」を上演
*  八享保8(1723)(1723年)出雲「大塔宮曦鎧」
*  九 (1724)1享保9年(1724年)1月、近松「関八州繋馬」を上演。11月22日近松死去、72歳。
*  享保16 (1731)9年(1731年)9月「[[鬼一法眼]]三略巻」[[文耕堂]]・[[長谷川千四]]合作
*  享保17 (1732)9年(1732年)9月「[[壇浦兜軍記]]」文耕堂・千四
*  享保18 (1733)4年(1733年)4月20日、長谷川千四死去、44歳
*  享保19 (1734)10年(1734年)10月、竹田出雲「[[芦屋道満大内鑑]]」を上演。竹本政太夫、二代目義太夫を襲名。
*[[元文]]2(1737)(1737年)「御所桜堀川夜討」出雲、文耕堂・[[三好松洛]]。義太夫、初代竹本播磨少掾となる。
*  四元文4(1739)4(1739年)4月「[[ひらかな盛衰記]]」出雲、三好松洛。
*[[延享]]2(1745)7(1745年)7月「[[夏祭浪花鑑]]」出雲、松洛、並木千柳参加(豊竹座より)。
*  三延享3(1746)8(1746年)8月「[[菅原伝授手習鑑]]」二代出雲、松洛、千柳
*  四延享4(1747)3(1747年)3月17日吉田三郎兵衛没、6月4日初代出雲没、11月16日「[[義経千本桜]]」二代出雲、松洛、千柳
*[[寛延]]元年(1748)8(1748年)8月「[[仮名手本忠臣蔵]]」二代出雲、松洛、千柳。[[豊竹此太夫|此太夫]]が文三郎と衝突、豊竹座へ去る。千柳、東の芝居へ去り宗輔を名乗る。此太夫は吉田冠子として作者に加わる。
*  二寛延(1749)7(1749年)7月「[[双蝶々曲輪日記]]」二代出雲、松洛。
*[[宝暦]]元年(1751)9(1751年)9月7日並木宗輔死去、56歳。10月「役行者大峯桜」二代出雲、吉田冠子、松洛、[[近松半二]]が加わる。
*  六宝暦6(1756)11(1756年)11月4日二代出雲死去、65歳
*  九宝暦9(1759)(1759年)「倒冠雑誌」を刊行。
*  十宝暦10(1760)(1760年)吉田文三郎死去。 
*  宝暦12年(1762)(1762年)「奥州安達原」半二立作者となる。
*[[明和]]3(1766)(1766年)「[[本朝廿四孝]]」半二
*  四明和4(1767)(1767年)竹本座廃座となる。
*  六明和6(1769)(1769年)「[[近江源氏先陣館]]」半二。竹田新松座として再興。
*  八明和8(1771)(1771年)「[[妹背山婦女庭訓]]」半二。三好松洛死去か、77歳「桜御殿五十三駅」竹本座に戻るか
*[[安永 (元号)|安永]]9年(1780(1780)「[[新版歌祭文]]」半二。
*[[天明]]3(1783)(1783年)近松半二死去、58歳 「[[伊賀越道中双六]]」半二ら<ref>[[祐田善雄]]『浄瑠璃史論考』,[[内山美樹子]]『浄瑠璃史の18世紀』</ref>。
 
==脚注==