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{{出典の明記|date=2019年8月30日 (金) 15:33 (UTC)|ソートキー=人1846年没}}
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'''エサイアス・テングネール'''({{lang-sv|Esaias Tegnér}}、1782年11月13日 - 1846年11月2日)は[[スウェーデン]]の作家・[[ギリシア語]]教授・[[監督 (キリスト教)|ビショップ]]。主にロマン主義の[[民族叙事詩]]『{{仮リンク|フリショフ物語|en|Frithiof's Saga}}』の評価を通じ、19世紀の間スウェーデン近代詩の父と見なされていた。「スウェーデン初の近代人」と呼ばれてきた。彼については多くの事が知られており、またテングネール本人も自分自身に関して隠し立てせずにすることなく書き残している。
 
== 経歴 ==
 
テングネールの父親は牧師であり、祖父母は父方・母方共に農民であった。父親は元々は Esaias Lucasson という名であったが、生地であるスモーランドの Tegnaby 村から取り、姓をTegnérusとした。この姓は彼の五番目の息子として生まれた詩人エサイアスによって後にテングネールへと変更された。1792年に父親はこの世を去る。
 
1799年、それまで国内で教育を受けていたテングネールは[[ルンド大学]]へと進学。同大学で、1802年には哲学の学士号を取得、ギリシア語講師として選ばれる1810年まで講師を続けた。1806年には初恋の女性であるAnna Maria Gustava Myhrmanと結婚。1812年には教授に任命され、ビショップとなる1824年までルンド大学で教鞭を執った。22年後にこの世を去るまで、彼は[[ベクシェー]]に留まった。
 
テングネールは比較的筆が遅く、最初の大きな成果は1808年の[[酒神讃歌]]的な軍歌であった。1811年には愛国詩『スヴェア』 により[[スウェーデン・アカデミー]]の大賞を受賞、その名を高めた。
同年、{{仮リンク|ゴート同盟|en|Geatish Society}}が[[ストックホルム]]に設立。これは愛国的な若い知識人の集まる一種の同好会であり、テングネールはあっという間に指導者に登り詰めた。同好会は『イードゥナ』と題した機関誌を発行。この機関誌は数多くの優れた詩を収録し、また同好会の調査――その中でも特に[[アイスランド文学]]と古ノルド語の歴史の研究に関するもの――を世に問うた。
テングネールと{{仮リンク|エーリク・グスタフ・イェイエル|en|Erik Gustaf Geijer|label=イェイエル}}、アフセリウス([[:en:Arvid August Afzelius|Arvid August Afzelius]])、ニカンデル([[:en:Carl August Nicander|Carl August Nicander]])はこの同好会の代表的な人物となった。
 
==著作==
 
===日本語訳===
{{Cite book |和書|author=エサイアス・テグネール |translator=山口秀夫 |year=1983 |title=フリショフ物語 |publisher=大学書林 |isbn=9784475023931 }}
 
== 脚注 ==