「後光明天皇」の版間の差分

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生涯に遺した漢詩の数について
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| 大嘗祭 =
| 元号 = [[寛永]]<br/>[[正保]]<br/>[[慶安]]<br/>[[承応]]
| 追号 = 後光明院<br/>(後光明天皇)
| 追号勅定年月日 = 1654年[[11月23日]](承応3年[[10月15日 (旧暦)|10月15日]])
| 政府首脳官職 = [[征夷大将軍]]
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}}
 
'''後光明天皇'''(ごこうみょうてんのう、[[1633年]][[4月20日]][[寛永]]10年[[3月12日 (旧暦)|3月12日]]- [[1654年]][[10月30日]][[承応]]3年[[9月20日 (旧暦)|9月20日]]))〉)は、[[江戸時代日本]]前期の第110代[[天皇]](在位: [[1643年]][[11月14日]][[寛永]]20年[[10月3日 (旧暦)|10月3日]] - 1654年10月30日承応3年9月20日))。幼名を素鵞宮(すがのみや[[諱]]'''紹仁'''(つぐひと)という幼名は'''素鵞宮'''(すがのみや)。

[[儒学]]に傾倒して[[典礼]]を重んじ、[[朝儀]]再興を目指した。
 
== 系譜 ==