「電算写植」の版間の差分

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モリサワは「MC型手動写植機」の成功で、手動写植の時代には写研に続く組版業界第2位であり、1976年には電子制御式の手動写植機「MC-100型」、1978年にはブラウン管ディスプレイを搭載して写植の印字を史上初めて肉眼で確認できるようになった「モアビジョン」を発表するなどしていたが、電算写植への動きはかなり遅く、モリサワと独ライノタイプ社との合弁会社であるモリサワ・ライノタイプ社によって1980年に発売された「ライノトロン」がモリサワによる最初の電算写植機となった。電算写植機への参入は遅かったものの、「ライノトロン」シリーズの最初の製品であるデジタルフォント式電算写植機「ライノトロン202E」は、発売から3年で100台を納品するヒット商品となった。
 
写研・モリサワに次ぐ業界3位だったリョービ印刷機販売(リョービ)も、1983年に同社初の電算写植機となる「REONET300」を発表。1986年頃には、自社のフォントをアウトラインフォント化するため、独URW社製のタイポグラフィー制作ソフト「[[:en:Ikarus (typography software)|IKARUS]]」(イカルス)システムを導入。
1985年、ライノタイプ社はDTPにおいてアップルやアドビなどと提携し、DTPに対応(Postscriptに対応)したイメージセッタ「ライノトロニック100」を発表。同時期、アドビは日本のDTP業界に進出する機会をうかがっており、またモリサワ2代目社長の森澤嘉昭も「(自社の看板商品である)ライノトロニックがMacで動く」という、後に「DTPの創始」とされる1985年に国際印刷機材展ドルッパ(drupa)で行われたデモンストレーションを目撃したことで、DTPに興味を持っていたことから、モリサワはライノタイプの仲介で1986年に米アドビ社と提携。1987年には新入社員の森澤彰彦(モリサワ創業家の跡取りで、後に3代目社長)にDTPを身に着けさせるため、4か月間米アドビ社に派遣するなど、積極的にDTPを推進することになる<ref>[https://www.weeklybcn.com/journal/hitoarite/detail/20160926_32876.html モリサワ 代表取締役社長 森澤彰彦] - 週刊BCN+</ref>。モリサワは1989年にアドビよりポストスクリプト日本語フォントのライセンスを取得。同年には日本初のポストスクリプト書体となる「リュウミンL-KL」と「中ゴシックBBB」が搭載されたプリンター「LaserWriter NTX-J」がアップル社より発売され、日本におけるDTP元年となった。
 
このような状況の日本に、DTPを引っ提げて米[[アドビシステムズ|アドビ]]社がやってくる。
1990年代に入ると、DTPは電算写植を急速に置き換えていく。特に、1970年代から1990年代にかけて非常に広範囲に使われた写研のフォント「ゴナ」とよく似たデジタルフォントが、モリサワの「新ゴ」として1993年に発売されたことが大きく、写研は1993年にモリサワを訴えたが2000年に敗訴した。
 
1986年当時、米[[アドビシステムズ|アドビ]]社は日本のDTP業界への進出を目論んでいたが、当時社員数十名のベンチャー企業であったアドビ社は、膨大な文字数に及ぶ日本語のPostscriptフォントを自社単独で制作することは不可能であると考えた。そのため、まず、写研に提携を持ち掛けるが、断られた(写研の石井裕子社長は情報公開に消極的で、インタビューなどはすべて断っているため、ついに写研フォントのPostscript化を果たさないまま2018年に死去した石井社長の思惑は不明)。次にアドビはリョービに提携の話を持ち掛けるが、当時のリョービは自社システム向けのフォントのデジタル化だけで手いっぱいであり、DTP向けに新たにPostscriptフォントを制作することには前向きではなかった。そのため、アドビは最後にモリサワに話を持ち掛けた。
 
1985年、ライノタイプ社はDTPにおいてアップルやアドビなどと提携し、DTPに対応(Postscriptに対応)したイメージセッタ「ライノトロニック100」を発表。同時期一方アドビは日本でライノトロン社DTP業界に進出製品を販売する機会をうかがっており、またモリサワ2代目社長の森澤嘉昭「(自社の看板商品である)ライノトロニックがMacで動く」という、後に「DTPの創始」とされる1985年に国際印刷機材展ドルッパ(drupa)で行われたデモンストレーションを目撃したことで、DTPに興味を持っていたことから、モリサワはライノタイプの仲介で1986年に米アドビ社と提携。1987年には新入社員の森澤彰彦(モリサワ創業家の跡取りで、後に3代目社長)にDTPを身に着けさせるため、4か月間米アドビ社に派遣するなど、積極的にDTPを推進することになる<ref>[https://www.weeklybcn.com/journal/hitoarite/detail/20160926_32876.html モリサワ 代表取締役社長 森澤彰彦] - 週刊BCN+</ref>。日本語Postscriptフォントの制作にあたっては、イカルスシステムが使い物にならなかったためアドビ製のソフトウェアを導入し、20人体制で1年以上の制作期間となるなど難航したが、モリサワは1989年にアドビよりポストスクリプト日本語フォントのライセンスを取得。同年には日本初のポストスクリプト書体となる「リュウミンL-KL」と「中ゴシックBBB」が搭載されたプリンター「LaserWriter NTX-J」がアップル社より発売され、日本におけるDTP元年となった。
 
1990年代に入ると、DTPは電算写植を急速に置き換えていく。DTPで利用できるフォントは、当初はモリサワの2書体だけであったものの、1989年には財団法人日本規格協会文字フォント開発・普及センターによる[[平成書体]]がリリースされ、また1991年には[[フォントワークス]]社(日本代理店ではなく香港の本社)からアップルのサードパーティ製としては初となる日本語フォントがリリースされるなど徐々に増えていく(ちなみに、[[工業技術院]]の求めに応じて写研が制作し、平成書体に収録された「平成丸ゴシック」が、2019年現在までDTPで利用可能な唯一の写研フォントである)。特に、1970年代から1990年代にかけて非常に広範囲に使われた写研のフォント「ゴナ」とよく似たデジタルフォントが、モリサワの「新ゴ」として1993年に発売されたことが大きく、写研は1993年にモリサワを訴えたが2000年に敗訴した。1992年リリースの日本語版Mac OS「漢字Talk 7.1」では、アドビのPostscriptフォントに対抗すべくアップル社が開発した[[TrueType]]フォントがOSレベルで標準サポートされ(それまでのMacでは、Postscriptフォントがプリンターに搭載されていたのに対し、OS側ではビットマップフォントしかサポートされていなかったため、画面に表示される文字はギザギザだった)、モリサワフォント、リョービフォント、平成フォント、そしてアップル製のOSAKAフォントが標準搭載されるなど、DTPを扱う環境も整備されていった。
 
特に小規模印刷で大きなシェアを得ていた写研のSAPTONシステムだが、印刷までの工程ごとに複数の高価な専用ハードウェアが必要とされる電算写植に対して、市販のMac1台とDTPソフトの「QuarkXPress」1本で完結するDTPの方が圧倒的に安価であり、また従来は複数の専門オペレータによって分業されていた工程をDTPでは一人で行えるようになるという点でも、小規模システムはDTPへの移行が早く、電算写植のシステムは1990年代前半から後半にかけてMacを使ったDTPベースのシステムに置き換えられた。写研はDTPの流れに対抗すべく、MacやWindowsなどで作成されたデータもSAPCOLで編集できる「SAMPRAS」(サンプラス)システムを1997年に発表したが、DTPベースのシステムと比較すると極めて高価であり、また電算機が写研のサーバーに接続されてフォントの使用1文字あたりで課金されるという「従量課金制」と言う点でも、小規模印刷所には受け入れられなかった。