「烏桓」の版間の差分
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=== 後漢の時代 ===
[[建武 (漢)|建武]]25年([[49年]])、烏桓の大人[[郝旦]](かくたん)ら9000余人が部下を引き連れて漢の朝廷にやってきた。その主だった指揮者が王や侯に封ぜられ、その数は80人以上にものぼった。彼らを長城の内側に居住させ、[[遼東属国]]
[[永平 (漢)|永平]]年間になって、漁陽烏桓の大人の[[欽志賁]](きんしほん)が部族を糾合して漢の命令を聞かなくなり、鮮卑も再び漢へ攻撃を始めた。遼東[[太守]]の[[祭肜]](さいゆう)は、懸賞を出して欽志賁を暗殺させ、その混乱に乗じて一味を打ち破った。
[[安帝 (漢)|安帝]]の時代になると、漁陽
=== 蹋頓の登場 ===
漢の末年、遼西烏桓の大人[[丘力居]](きゅうりききょ)は5000余りの落を配下に置き、上谷烏桓の大人[[難楼]](なんろう)は、9000余りの落を配下に置いてそれぞれ王を名乗っていた。加えて遼東属国烏桓の大人[[蘇僕延]](そぼくえん)は1000余りの落を配下に置いて、勝手に峭王と号し、右北平烏桓の大人[[烏延]]は800余りの落を配下に置いて、勝手に汗魯王を号し、彼らはそれぞれに智謀もあり勇敢な者たちであった。[[中山郡|中山]][[太守]]の張純は、逃亡して丘力居の配下に入ると、自ら弥天安定王と号し、三郡の烏桓の総指揮者となり、[[青州 (山東省)|青]]
のちに楼班が成長すると、峭王([[蘇僕延]])はその配下を取りまとめつつ、楼班を奉じて単于とし、蹋頓を王とした。蹋頓は策略をめぐらすことを好む人物であった。広陽の[[閻柔]]は若い時捕らえられて烏桓と[[鮮卑]]のもとに連れてこられたが、次第に異民族たちの崇敬を集めるようになっていた。そこで閻柔は鮮卑部族の力を借りて、[[護烏桓校尉]]の[[ケイ挙|邢挙]]を殺すと、自ら護烏桓校尉の官に就いた。袁紹はこれを利用し、閻柔を手厚く扱うことによって北辺の安定を計った。のちに袁紹の三男である[[袁尚]]が[[曹操]]に敗れて蹋頓のもとに逃げ込むと、蹋頓の力を頼んで
[[建安 (漢)|建安]]11年([[206年]])、曹操は自ら[[朝陽市|柳城]]の蹋頓を撃った。秘密裏に軍勢を動かし間道を通ったが、柳城の手前100里余りの所で敵軍に発見された。袁尚は蹋頓とともに兵を率いて[[凡城]]に曹操を迎え撃ち、その兵馬ははなはだ盛んであった。曹操は小高い場所に登って、敵の陣営を見渡し、兵を出すのを抑えていた。敵に少し動きのあるのを見届けてから兵を動かし、敵兵を打ち破った。その戦闘の間に蹋頓の首を取り、死者は野を埋めた([[白狼山の戦い]])。速附丸
=== 魏の時代 ===
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*郝旦([[光武帝]]の時代)…[[建武 (漢)|建武]]25年([[49年]])に朝貢。
*欽志賁([[永平 (漢)|永平]]年間)…漁陽の烏桓。反乱を起こすが、暗殺される。
*無何([[安帝 (漢)|安帝]]の時代)…漁陽
*於秩居(安帝の時代)…[[元初]]4年([[117年]])、漢とともに、[[鮮卑]]の[[連休 (鮮卑)|連休]]を討つ。<『[[後漢書]]』鮮卑伝>
*戎末廆([[順帝 (漢)|順帝]]の時代)…親漢都尉として漢朝に貢献。率衆王の位を与えられる。
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