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'''サラエボ事件'''(サラエボじけん、'''サラエヴォ事件'''、'''サライェヴォ事件''')は、[[1914年]][[6月28日]]に[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[推定相続人|皇嗣]]<ref>
{{cite book | 和書 | title=日本人のための第一次世界大戦史 世界はなぜ戦争に突入したのか | author=板谷 敏彦 | year=2017 | publisher=毎日新聞出版 }} p.162 に当時の新聞の画像が掲載されている。それによれば、「墺國皇嗣、同妃両殿下暗殺」の見出しに両殿下の写真が並べられて報道されていた。</ref>である[[オーストリア大公]][[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント]]とその妻[[ゾフィー・ホテク]]が、[[サラエボ]](当時オーストリア領、現[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]領)を訪問中、[[ボスニア]]出身の{{仮リンク|ボスニア系セルビア人|bs|Bosanski Srbi}}の青年[[ガヴリロ・プリンツィプ]]によって[[暗殺]]された事件。プリンツィプは、[[大セルビア主義]]テロ組織「[[黒手組]]」の一員{{仮リンク|ダニロ・イリッチ|en|Danilo Ilić}}によって組織された6人の暗殺者(5人のボスニア系セルビア人と1人の[[ボシュニャク人]])のうちの1人だった。暗殺者らの目的が語った動機、のちに「{{仮リンク|青年ボスニア|en|Young Bosnia}}」と呼ばして知られるようになった反オーストリア的革命運動と一致していた。この事件をきっかけとして[[オーストリア=ハンガリー帝国]]は[[セルビア王国_(近代)|セルビア王国]]に[[オーストリア最後通牒|最後通牒]]を突きつけ、[[第一次世界大戦]]の勃発につながった。
 
暗殺者グループと、暗殺計画を支援した協力者、および暗殺を計画した[[セルビア軍]]関係者は逮捕されて裁判にかけられ、有罪判決を受けたのちに処罰された。 ボスニアで逮捕された者たちは1914年10月にサラエボで裁判にかけられた。その他の者たちは、1917年に暗殺とは無関係な罪状でセルビア当局によって起訴され、フランス支配下の[[テッサロニキ]]で裁判にかけられた。テッサロニキ裁判では3人のセルビア軍高官が処刑された。その中の1人であり、事件当時セルビア軍諜報部長だった[[ドラグーティン・ディミトリエビッチ]]は、自らがフランツ・フェルディナントの暗殺を指令したことを裁判中に告白した。
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ゾフィーは貴族出身ではあったが王族出身ではなく、ハプスブルク家の[[推定相続人|皇位継承者]]であるフランツ・フェルディナントとの結婚は[[貴賤結婚]]となった。 皇帝フランツ・ヨーゼフは、2人の間に生まれた子孫が皇位を継がないことを条件として結婚を承認していた。視察が予定されている6月28日は2人の14回目の結婚記念日であった。ゾフィーの置かれていた立場について、 歴史家[[A・J・P・テイラー]]は次のように述べている。
 
{{Quote|(ゾフィーには、大公の)階級を共有することは絶対に許されなかった。……夫のような華やかさを共有することはできず、公の場では彼の横に座ることさえ許されていなかった。しかただし、1つの抜け道が存在した。……彼が軍人として行動する場合に限り、その妻は同じ階級に属する者として振る舞うことができたのだ。それ故に、大公は1914年にボスニアで軍を視察することに決めたのだった。ボスニアの首都サラエボでは、大公とその妻は屋根のない馬車に隣同士座って移動することができた。……このようにして、愛のため、大公は死地に赴いたのである{{sfn|Taylor|1963|p=13}}。}}
 
フランツ・フェルディナントは[[ドナウ連邦構想|連邦化構想]]の支持者であり、オーストリア=ハンガリー二重帝国内のスラブ人地域から第三の王国を形成し、二重帝国を三重帝国へと改編することに賛成していると見られていた{{sfn|Albertini|1953|pp=11–17}}。スラブ系民族による第三の王国は、セルビア[[民族統一主義]]に対する防波堤となる可能性があり、そのためにセルビア民族統一主義者らは大公を脅威として認識していた{{sfn|Albertini|1953|pp=87–88}}。プリンツィプは裁判中、大公が計画していた改革の阻止が暗殺の動機の1つであると述べた{{sfn|Albertini|1953|p=49}}。