「川越街道」の版間の差分
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[[画像:SaitamaKendo39goFudanotsuji2005-1-4.jpg|thumb|240px|right|川越市。札の辻(2005年1月)]]
'''川越街道'''(かわごえかいどう)とは[[江戸時代]]の街道で、[[江戸]][[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]より[[中山道]]を進み、[[江戸四宿]]の1つ[[板橋宿]]の平尾[[追分]]で分岐して[[川越城]]下に至る街道で[[伊能忠敬]]「[[大日本沿海輿地全図]]」では実測、10里34町33間半(約43km)だった<ref name="wako254"/>。当街道とほぼ平行して、または当街道を拡幅して、[[国道254号]]が建設され、現在では同国道のうち[[東京都]][[豊島区]]の池袋六ツ又交差点から[[埼玉県]][[川越市]]の新宿町(北)交差点までの[[通称]]となっている。<ref>[http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/douro/tusyodoro/ichiran.pdf 東京都通称道路名一覧表] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160305043815/http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/douro/tusyodoro/ichiran.pdf |date=2016年3月5日 }}[[東京都建設局]]</ref><ref>[http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/douro/tusyodoro/kubu.pdf 東京都通称道路名地図(区部拡大版)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160305013228/http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/douro/tusyodoro/kubu.pdf |date=2016年3月5日 }}東京都建設局</ref><ref name="wako254">[http://www.city.wako.lg.jp/var/rev0/0012/6242/9enjoy.pdf 和光市民なら知っておきたい川越街道の真実] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160304214115/http://www.city.wako.lg.jp/var/rev0/0012/6242/9enjoy.pdf |date=2016年3月4日 }}和光市</ref>
== 起点・終点 ==
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== 歴史 ==
[[室町時代]]の[[長禄]]元年([[1457年]])、[[上杉持朝]]の家臣・[[太田道灌]]が[[江戸城]](千代田城)と[[川越城]](河越城)を築き、部分的にあった古道を繋ぎ2つの城を結ぶ道を作った。[[古河公方]]に対する[[扇谷上杉家]]の防衛線であった。後に[[豊島泰経]]が道灌に対抗するために[[練馬城]]を築いて江戸と河越の間の道を封鎖しようとしたために両者は激しく対立した(『[[太田道灌状]]』)。戦国時代を通じ重要な役割を果たしたが、江戸時代に入って[[寛永]]16年([[1639年]])に[[川越藩]]主になった[[松平信綱]]と嫡男の[[松平輝綱]]が、中山道の[[脇往還]]としてさらに整備したのが川越街道である。当時は「'''川越道中'''」{{efn|[[新編武蔵風土記稿]]の[[上板橋村]]に、「当所は川越道中の馬次」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 上板橋村}}。}}「'''川越往還'''」などと呼ばれ、「川越街道」と呼ばれるようになったのは[[明治]]に入ってからである<ref>{{cite
[[寛政]]年間に江戸で焼き芋が流行すると、[[文化 (元号)|文化年間]]に川越産の芋を使った焼き芋屋の宣伝コピーとして、「'''栗(九里)より(四里)うまい十三里(十三里半とも)'''」という言い回しが生まれた(実際の江戸と川越の距離は11里未満だったが語呂合わせで13里とされたわけである)。
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