「亀の調教師」の版間の差分

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オスマン・ハムディ・ベイは1860年に[[パリ]]で法律を勉強している時に、絵画を[[ルイ・ブーランジェ]]と歴史画家の[[ジャン=レオン・ジェローム]]について学んだ。1869年に[[イスタンブール]]に戻ってから[[オスマン帝国]]の文官としての経歴を積んだ。彼は現在の{{仮リンク|イスタンブール考古学博物館|en|İstanbul Archaeology Museums}}の創立者であり監督をつとめたが、画家としての仕事も続けた。ハムディ・ベイの『亀の調教師』は、1869年にフランスの雑誌『ル・トゥール・デュ・モンド』に載った、日本の浮世絵にもとづいた版画作品に影響された可能性がある<ref name="Voss" />。このL・クレポン『亀使い』(''Charmeur de tortues'')では、太鼓の音楽で亀に「魔法をかける」人物を描いている<ref name="Voss" /><ref name="Shaw72" />。
 
フランスのサロン絵画へのオマージュとしての絵画様式で描かれていると考えられている<ref name="Voss" />この作品を、ハムディ・ベイは[[サロン・ド・パリ]]に提出し、1906年にはじめて展示された<ref name="Shaw72" /><ref>しかし、[http://archive.org/details/catalogueillust1906soci Catalogue illustré du salon de 1906] には見えていない</ref>。この時には『男と亀たち』(''L’homme aux tortues'')という題名だった。1907年にハムディ・ベイは同じモチーフによる2作めの、少し変えた作品を作ったが、こちらには画家{{仮リンク|アフメッド・ムフタル・パシャ|en|Ahmed Muhtar Pasha}}への献辞が手で書かれていた<ref name="Zaman" />。
 
== 反響 ==