「コショウ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
75行目:
<!--また、特に古代ギリシア、ローマ時代では一握り分の胡椒で最高の奴隷10人を雇えると言われたほどであった{{要出典|date=2013年6月}}。-->[[ゲルマン]]部族のリーダー([[西ゴート族]]の王)であった[[アラリック1世]]に[[ローマ]]が包囲された際、市民は包囲を解く代償として[[金]]5千ポンド、[[銀]]3万ポンド、絹の[[チュニック]]4千着、緋色に染めた皮革3千枚、そして胡椒3千ポンドを渡すことに同意した<ref name="Nor">{{cite book|author=J. Norwich|title=Byzantium: The Early Centuries|year=1989|publisher= Knopf|pages=134|isbn=978-0394537788}}</ref>。
 
中国では西方から伝来した香辛料という意味で、'''胡椒'''と呼ばれた([[胡]]は[[ソグド人]]を中心に中国から見て西方・北方の異民族を指す字であり、[[椒]]は[[カホクザンショウ]]を中心に[[サンショウ属]]の香辛料を指す字である)。[[日本]]には[[中国]]を経て伝来しており、そのため日本でもコショウ(胡椒)と呼ばれる。[[天平勝宝]]8歳(756)、[[聖武天皇]]の77日忌にその遺品が[[東大寺]]に献納された。その献納品の目録『東大寺献物帳』の中にコショウが記載されている。当時の日本ではコショウは[[生薬]]として用いられていた(江戸時代初期に書かれた『雑兵物語』でも「(戦場で)毎朝胡椒を1粒づつかじれば夏の暑さにも冬の寒さにも当たらない」としており、当時でも薬用の需要があったことが分かる<ref>「鉄砲足軽小頭 朝日出右衛門」の項より</ref>。)。コショウはその後も断続的に輸入され、[[平安時代]]には調味料として利用されるようになった<ref>鈴木晋一 『たべもの噺』 平凡社、1986年、pp.68-69</ref>。
 
[[唐辛子]]が伝来する以前には、[[山椒]]と並ぶ香辛料として現在より多くの料理で利用されており、[[うどん]]の薬味としても用いられていた。江戸期を通じて唐船は平均して年間5.7トン<ref>時期により非常に粗密あり。参照:鈴木伸哉・南木睦彦「江戸の墓から出土したコショウ」(植生史研究14-1号p.29-33 2006.1)[http://hisbot.sakura.ne.jp/journalfiles/1401/1401_029-033.pdf]</ref>、オランダ船は1638年の記録では78トン<ref>行武和博、「[https://doi.org/10.20624/sehs.72.6_673 近世日蘭貿易の数量的取引実態 : 17世紀前期オランダ商館作成「会計帳簿」の解読・分析]」 社会経済史学 2007年 72巻 6号 p.673-693, {{doi|10.20624/sehs.72.6_673}}。仕入価格で33150ギルダー(現代の3億6500万円程度)。なお現代の日本の輸入量は年8000トン程度、国際相場1トン30万~100万円程度。</ref>を輸入している。現在でも[[船場汁]]、[[潮汁]]、[[沢煮椀]]などの[[吸い物]]類を中心に、薬味としてコショウを用いる[[日本料理]]は残存している。(「胡椒茶漬け」という料理があったという記録もある)。唐辛子はその伝来当初、胡椒の亜種として「南蛮胡椒」「高麗胡椒」などと呼ばれていた。このため現在でも[[九州]]地方を中心に、唐辛子の事を「胡椒」と呼ぶ地域がある。九州北部にて製造される[[柚子胡椒]]や、[[沖縄]]の[[コーレーグス]](高麗胡椒)の原料は唐辛子である。胡椒を主に唐辛子の意で用いる地域では、''P. nigrum''は「洋胡椒」と呼んで区別することもある。