「比叡 (戦艦)」の版間の差分

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[[1939年]](昭和14年)12月5日の公試では排水量36,332 t、出力137,970馬力において29.9 ktを記録している。[[1940年]](昭和15年)7月3日には、皇弟である[[高松宮宣仁親王]](海軍少佐)が砲術長に補職される{{Sfn|高松宮宣仁親王伝記|1991|p=316a|ps=「比叡」砲術長になられる}}{{Sfn|高松宮宣仁親王伝記|1991|p=735|ps=〈付〉高松宮宣仁親王ご年譜}}。親王にとって2度目の比叡勤務となる。[[1941年]](昭和16年)4月まで勤務していた{{Sfn|高松宮宣仁親王伝記|1991|p=735|ps=〈付〉高松宮宣仁親王ご年譜}}。[[有馬馨]]比叡艦長以下幹部は宣仁親王に参謀長室を提供しようとするなど気を使うことが多かったが<ref>有馬馨『帝国海軍の伝統と教育』pp19、26</ref>、親王は一将校として比叡で勤務した{{Sfn|高松宮宣仁親王伝記|1991|pp=318-319}}。後日、親王は比叡沈没後の水交会で「比叡の時が一番気安く暮らした」と回想している{{refnest|[[#高松宮日記5巻]]、339頁(昭和17年12月19日記事)<ref group="注釈">『〔上欄〕〇九〇〇軍令部。一八〇〇[[水交社]]ニテ「比叡」ノ会。一九五〇皈。「比叡」ノトキガ一番気ヤスククラシタ。(以下略)』</ref>}}。
 
== =太平洋戦争 〜緒戦〜===
=== 緒戦 ===
[[Image:Akagi Hiei Kirishima Pearl Harbor.jpg|thumb|right|300px|1941年12月7日、真珠湾攻撃に向けて進撃する日本海軍[[第一航空艦隊|空母機動部隊]]。画面左から[[航空母艦|空母]][[加賀_(空母)|加賀]]、[[戦艦]]比叡、[[霧島_(戦艦)|霧島]]。<ref>[[#傑作軍艦アーカイブ⑤ 戦艦「金剛」型 世界の艦船 2018★3増刊 NO.876]]p.144『太平洋戦争の殊勲艦 「金剛」型戦艦の航跡』 海人社</ref>]]
[[Image:USS Edsall (DD-219) under fire and sinking on 1 March 1942 (80-G-178997).jpg|thumb|right|300px|1942年3月1日、艦爆の攻撃で大破した駆逐艦[[エドサル (駆逐艦)|エドサル]]。すでに艦尾より沈みだしている。比叡は霧島と共に大破したエドサルにとどめをさしている。]]
 
これにより、国民の間に建艦運動が起きている<ref>[[#豊田撃沈]]p.181</ref>。第十一戦隊幹部と比叡乗組員約1200名は水上機母艦[[日進 (水上機母艦)|日進]]に便乗し、内地にむかった{{refnest|[[#高松宮日記5巻]]、241頁(昭和17年11月23日記事)<ref group="注釈">『○第十一戦隊(二二-〇九三〇)「比叡」乗員(重傷者ヲ除ク)艦長以下約一二〇〇名及[[大串秀雄|大串]]、[[千早正隆|千早]]、「日進」ニ便乗、二十七日[[横須賀|「横」]]着予定。』</ref>}}。その後、一部は最新鋭の軽巡洋艦[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]に配属され、太平洋戦争終盤を戦うことになった。西田艦長に対しては言い分を聞く査問会すら開催されず、時の[[海軍大臣]]・[[嶋田繁太郎]]海軍大将により、現役を解き[[予備役]]とする懲罰処分を受けた<ref>[[#連合艦隊戦艦12隻を探偵する]]99頁</ref>。山本長官はこの処分に激怒し、[[宇垣纏]]中将を派遣して抗議したが、もともと山本と嶋田が犬猿の仲であったため裁定は覆らなかった。
[[File:戦艦比叡慰霊碑.jpg|thumb|right|150px|軍艦比叡鎮魂碑]]
西田艦長はその後も閑職を転々として終戦を迎えた。戦後も決して言い訳をすることなく、取材に応じたのも死の数ヶ月前に1度きりであった。{{main|西田正雄}}