「チリ・クーデター」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎アジェンデ大統領の任期中: 国際仲裁の提案について一言言及した
→‎アジェンデ大統領の任期中: 物不足とインフレの真の理由
61行目:
こうした事態に直面したアジェンデは、銅の接収の問題を国際仲裁によって解決することを提案した。ところがニクソン政権は、1914年の二国間条約を持ち出すことによってアジェンデの提案を拒否した。その条約には「一方もしくは両方の国の自主、名誉あるいは重要な利益を害するおそれのある問題(中略)は、どのような仲裁も受けない」と記されているから、というのがその理由だった<ref name=":0" />。
 
また、政権交代後にアジェンデが進めた性急な国有化政策や社会保障の拡大などの社会主義的な経済改革は、自由経済であるもののその規模が大きいわけではない当時のチリ経済の現状にそぐわないものであり、それが結果的にインフレと物不足を引き起こした、とする説は過去には聞かれた。とはいえ、アジェンデ政権が成立した当時のチリでは人口の40%が栄養不良の状態に放置れ、医療も受けれない状態だったため、事態は一刻を争う状況あった。また、銅山の国有化はチリ議会ひいてはチリ国民が決めたことであり、「ジェンデが進めた」のではなかった。さらに、国営化の範囲も社会保障の内容も1970年選挙の人民連合の綱領に明確に謳われており、それをチ国民が支持したものである。実際のところ、物不足とインフレの原因は米国による金融封鎖および銅産業に対する妨害に起因する外貨不足にあったとする説が現在では国際的に圧倒的である。つまり、前述の似非デモやトラック所有者ストも含め、米国の[[リチャード・ニクソン]]政権が各種の経済制裁攪乱工作を行い、その中でも、当時のチリ経済が銅の輸出に大きく依存していたため、アメリカが保有していた銅の備蓄を放出してその国際価格を低下させたことがチリ経済に大きな打撃を与えたと言われうべきである。これらの結果うしてアジェンデ政権末期にはチリ経済は極度の混乱状態に陥るに至った。
 
しかし、それにもかかわらず、アジェンデ政権に対する国民の支持はさほど低下していなかった。1973年3月の総選挙では、人民連合は43%の得票でさきの統一地方選よりは減ったが、依然として大統領選を上回る得票で議席を増加させた。しかし、大統領選の決選投票ではアジェンデ支持に回ったキリスト教民主党が、アメリカの[[ヘンリー・キッシンジャー]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]の意向を受けたCIAの働きかけで反アジェンデに転回したため、アジェンデ政権は窮地に追い込まれていく。