「承平天慶の乱」の版間の差分

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[[桓武天皇]]の曾孫・[[高望王]]は[[平氏|平姓]]を賜って臣籍に下り、都では将来への展望もないため、[[上総国|上総]][[介]]となり関東に下った。つまり、京の貴族社会から脱落しかけていた状況を、当時多発していた[[田堵]]負名、つまり地方富豪層の反受領武装闘争の鎮圧の任に当たり、武功を朝廷に認定させることによって失地回復を図ったとも考えられている。高望の子らは武芸の家の者([[武士]])として[[東国|坂東]]の治安維持を期待され、関東北部各地に所領を持ち土着した。ただし、この時代の発生期の武士の所領は、後世、身分地位の確立した武士の安定した権利を有する所領と異なり、毎年[[国衙]]との間で公田の一部を、経営請負の契約を結ぶ形で保持するという不安定な性格のものであった。つまり、彼らがにらみを効かせている一般の田堵負名富豪層と同じ経済基盤の上に自らの軍事力を維持しなければならず、また一般の富豪層と同様に受領の搾取に脅かされる側面も持っていた。
 
高望の子のひとり[[平良将]](良持とも)は[[下総国]][[佐倉市|佐倉]]に所領を持ち、その子の将門は[[京都|京]]に上って朝廷に中級官人として出仕し、同時に官人としての地位を有利にするために[[摂関家]][[藤原忠平]]の従者ともなっていた。良将が早世したため将門が帰郷すると、父の所領の多くが伯父の[[平国香|国香]]や叔父の[[平良兼|良兼]]に横領されてしまっていたといわれ、将門は下総国豊田を本拠にして勢力を培った。
 
[[延長 (元号)|延長]]9年([[931年]])ごろから将門は「女論」によって父・良兼と不和になったとされる。「女論」の詳細は『[[将門記]]』に欠落があって不明だが、前[[常陸国司|常陸大掾]][[源護]]の娘、もしくは良兼の娘を巡る争いであったと考えられている。源護には三人の娘があり、それぞれ国香<ref group="注釈">
国香の子の貞盛に嫁いだとも。</ref>、良兼、[[平良正|良正]]に嫁いでいる。この源護の三人の娘の誰かを将門が妻に望んだが叶わなかったためという説、または、良兼の娘を将門が妻にし、その女を源護の三人の息子([[源扶]]、[[源隆]]、[[源繁]])が横恋慕したという説がある。