「ミヒャエル・モーザー (写真家)」の版間の差分

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アウスゼーでの撮影中にカメラの暗箱を修理する必要が生じ、ブルガーは木工に長けたヨアヒムにこれを依頼する。カメラ修理の礼として子供たちの写真を撮影しようとしたが、皆カメラに怯えて逃げてしまい、ただ一人その場に残って興味を示したのが13歳のミヒャエルであった。ブルガーのアウスゼー滞在の数日間、ミヒャエルは彼に師事して撮影を手伝い、この縁でブルガーに弟子入りして[[ウィーン]]に上京することとなった{{sfn|宮田|パンツァー|2018|pages=13-14}}。なお、のちにミヒャエルの弟3人もブルガーの手伝いをしている{{sfn|東京大学史料編纂所|2018|pages=304}}。
 
[[トリエステ]]に貿易港を持つオーストリアは他の欧米諸国に競って海洋進出を模索しており、特に著名な日本研究家である[[シーボルト]]{{要曖昧さ回避|date=2019年9月9日 (月) 12:46 (UTC)}}の支持もあって1850年代から日本との通商条約締結を企図していた。かくして[[オーストリア=ハンガリー帝国東アジア遠征隊]]が結成され、その商務・学術業務責任者で写真にも興味のあった{{仮リンク|カール・フォン・シェルツァー|en|Karl von Scherzer}}博士の意向で、随行画家の代わりに写真家のブルガーが抜擢された。モーザーはブルガーの荷物持ちとして、彼の私費で遠征に同行することとなった。当時の外交情勢などに阻まれて、ようやく遠征隊がトリエステを出港したのは1868年10月のことであった{{sfn|宮田|パンツァー|2018|pages=(9)-(12),(15)}}。
 
遠征隊は[[タイ王国|シャム]]、[[清]]との条約締結を経て1869年(明治2年)9月に[[長崎市|長崎]]・[[神戸]]に入港し、同年10月に[[横浜市|横浜]]にて[[日墺修好通商航海条約]]が締結された。モーザーらの船は修繕による4週間の停泊の後、横浜を出て南米方面へと帰国の途に就いたが、滞在中に病気に罹り療養していたブルガーは、シェルツァー博士にしばらく留まって職務を全うするよう勧められた。モーザーはこのとき帰る機会が与えられたものの、長期にわたる慣れない船旅に辟易し、日本に留まることを選んだ{{sfn|宮田|パンツァー|2018|p=|pages=(15)-(16)}}。