「金億」の版間の差分

エスペラントに関し、出典を付けて記述
(エスペラントに関し、出典を付けて記述)
 
[[1916年]]、五山学校で教鞭を執る。ここで、後に詩人となる[[金廷湜]]と出会い、彼の才能を見抜き、指導をすることになる。金は金廷湜が文壇に上がれるように取り計らったりもしている。また、[[崇徳学校]]でも教鞭を執っている。
 
本格的な文芸活動は、[[1918年]]から、『[[泰西文芸新報]]』に詩を投稿することで始まる。当誌に[[ツルゲーネフ]]の散文詩や[[ポール・ヴェルレーヌ]]の詩を翻訳紹介した。海外の詩文学から学んだ知識をまとめ発表した論文「詩形の音律と呼吸({{Lang|ko|-의-과-}})」は、新体詩を模索する当時の詩人達に大きな影響を与えた。[[1920年]]、『[[廃墟 (朝鮮の雑誌)|廃墟]]』『[[創造 (朝鮮の雑誌)|創造]]』の同人となる。『廃墟』には「ヴェルレーヌ詩抄」を連載し、詩を翻訳紹介する。『創造』にはツルゲーネフをはじめとして多くの海外詩人を紹介した。こうした詩をまとめて、[[1921年]]、[[広益書館]]から朝鮮で最初の詩集と言われる『懊悩の舞蹈({{Lang|ko|-의-}})』を刊行する。[[1923年]]、創作詩集『クラゲの歌({{Lang|ko|해파리의 노래}})』は朝鮮最初の近代詩集で、フランス象徴主義の詩と密接な関係を見せている。また、金は[[エスペラント]]の研究にもその先駆者となり、その普及のために講習所を設立したりもした。『[[開闢]]』に「エスペラント自習室」を連載し、朝鮮で最初のエスペラント語の教科書『エスペラント短期講座』を刊行している。
 
また、金は朝鮮における[[エスペラント]]の研究・普及の先駆者であった。1916年に[[東京物理学校]]で[[小坂狷二]]にエスペラントを学び<ref>柴田・後藤編「日本エスペラント運動人名事典」p.176</ref>、朝鮮に戻って、その普及のために講習所を設立したりもした。『[[開闢]]』に「エスペラント自習室」を連載し、朝鮮で最初のエスペラント語の教科書『エスペラント短期講座』を刊行している。エスペランティストとしては筆名Verda E. Kimを名乗り、日本の[[La Revuo Orienta]]誌に朝鮮文学の短編のエスペラント訳を掲載している<ref>「La Revuo Orienta」1930年1,2,4,9,11号</ref>。
 
解放後、[[朝鮮戦争]]によって被北し、その後の消息は不明である。
*1950年9月10日、[[朝鮮戦争]]の混乱で被北し、消息を絶つ。
<!-- *1956年、[[平和統一促進委員会]]の中央委員に被任される。 -->
 
== 出典 ==
<references />
 
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