「朴憲永」の版間の差分

エスペラントについて記述し、エスペランティストのカテゴリーも復帰
(Category:エスペランティストが2007年12月31日 (月) 05:08‎ H-shige で付けられた当時は導入部に、その単語が書いてありましたが、今は当記事に何も言及が無いので除去しました。当記事の英語版エスペラント版にも彼がEsperantist, Esperantistoであるという話題はありません。)
(エスペラントについて記述し、エスペランティストのカテゴリーも復帰)
[[ファイル:1933_9_14_Pak-Hon_yong.jpg|thumb|right|1933年9月14日、[[西大門]]刑務所での写真。]]
京城高普3年時の[[1919年]]、[[三・一独立運動]]に参加。日本官憲に目を付けられ、[[上海市|上海]]に[[亡命]]する。上海では高麗共産党イルクーツク派に参加し、[[1922年]]には[[モスクワ]]で開催された極東諸民族大会に参加した。[[1925年]]には朝鮮に帰国し逮捕、投獄される。出獄後、[[東亜日報]]や[[朝鮮日報]]で記者を務める傍ら、[[朝鮮共産党#第1次朝鮮共産党|第1次朝鮮共産党]]の創建メンバーとなった。その際、高麗共産青年会を組織して、責任秘書となった。同年末、第1次朝鮮共産党事件によって逮捕されるが、自分の糞を食べるなど精神錯乱を装って病気保釈され、[[1928年]]に釈放された。
 
また朴は1924年に[[金億]]と協力して京城で[[エスペラント]]の講習会を開催し、金、[[大山時雄]]らと朝鮮エスペランチスト連盟の結成に参加した<ref>柴田・後藤編「日本エスペラント運動人名事典」p.443</ref>。
 
[[1928年]][[12月]]には[[ソビエト連邦|ソ連]]に逃亡、モスクワ共産大学で学んだ。[[1932年]]、上海にて逮捕。[[1939年]]に出獄し、[[光州広域市|光州]]の煉瓦工場の労働者として身分を隠しながら、地下組織「ソウル・コム」グループを指導した。
* [[曺奉岩]]
* [[裵哲]]
* [[エスペランティスト]]
{{col-end}}