「二階堂トクヨ」の版間の差分

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日本女子体育専門学校 (旧制)の作成に伴う調整。
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|学派=
|研究分野=[[体育学]]
|研究機関=[[東京女子高等師範学校]]・[[日本女子体育専門校 (旧制)|二階堂体操塾]]
|博士課程指導教員=
|他の指導教員=
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|称号=勲六等[[瑞宝章]]<ref name="jwcpe"/>
|特筆すべき概念=女子体育
|主な業績=日本への[[ホッケー]]・[[クリケット]]の紹介<ref name="Osaki">{{PDFlink|[http://www.city.osaki.miyagi.jp/index.cfm/10,98,c,html/98/1002_07.pdf 興味津々 日本女子体育大学創設者 二階堂トクヨ]}} 広報おおさき 2010年2月号</ref><br />二階堂体操塾の創立
|主要な作品=『体操通俗講話』、『足掛四年』
|影響を受けた人物=[[マルチナ・バーグマン=オスターバーグ]]
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=== 二階堂体操塾の創立(1922-1926) ===
{{see also|日本女子体育専門学校 (旧制)#二階堂体操塾の開塾と発展}}
[[ファイル:Nikaido Gymnastic School, Yoyogi.png|thumb|二階堂体操塾]]
[[1922年]](大正11年)[[4月15日]]{{sfn|西村|1983|p=205}}、私財を投げ打ち{{#tag:ref|トクヨが投じた私財は、母の老後の住まいを買うために貯金していた1,500円である{{sfn|穴水|2001|p=135}}。先述の通り、募金も開塾資金に利用している{{sfn|西村|1983|p=194}}。体育研究所から体操塾に計画変更後に募金額が増え、最終的に3,800円となった{{sfn|西村|1983|p=201}}。うち3,500円を塾舎の整備に、残る300円を風呂桶・風呂釜の購入に充てた{{sfn|西村|1983|p=201}}。|group="注"}}、[[日本女子体育大学]]の前身となる「二階堂体操塾」を開いた<ref name="jwcpe"/>{{sfn|穴水|2001|p=179}}。女子体育の研究機関と女子体育家(≒女性体操教師)の養成機関を兼ねた塾で、トクヨを中心として入塾生とともに創り上げていく共同体であった{{sfn|穴水|2001|p=136}}。この時トクヨは41歳であった{{sfn|穴水|2001|p=179}}。[[校舎]]は東京・下代々木(後の[[小田急小田原線]][[参宮橋駅]]付近{{#tag:ref|二階堂体操塾創立時にはまだ小田急線は開業しておらず、[[京王線]][[神宮裏駅]](現存せず)が最寄駅であった{{sfn|西村|1983|p=197}}。当時の代々木は人家もまばらで自然環境が良く、塾のすぐ近くには[[代々木練兵場]]([[ワシントンハイツ (在日米軍施設)|ワシントンハイツ]]を経て[[代々木公園]]となる)があった{{sfn|西村|1983|p=197}}。|group="注"}})に借りた[[庭園]]付きの邸宅を利用し、設立前から住み込みで準備していた{{sfn|西村|1983|pp=196-197}}。トクヨ塾長が自ら授業を行ったほか、トクヨの弟・二階堂真寿が国語と和歌を担当し、軍人や[[軍医]]ら軍関係者、[[野口源三郎]]・[[大谷武一]]ら体育界の重鎮も教鞭を執った{{sfn|西村|1983|p=201, 207, 215}}。また、トクヨの母・二階堂キンと[[家政婦|お手伝いさん]]2人が[[家事]]を行って塾生を支えた{{sfn|西村|1983|p=217}}。
 
開校して間もなく、体操教師不足の時勢からトクヨの活動は世間の注目を浴び、9月には塾生に出張教授依頼が舞い込むほどであった{{sfn|西村|1983|p=209}}。この年の[[12月4日]]、[[東京キリスト教青年会会館]]で[[第6回極東選手権競技大会]]を前にした女子体育の講演会が開かれ、野口源三郎・大谷武一・[[沢田一郎]]・内藤起行に続いてトクヨも演壇に立った{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=144-146}}。この時の[[チラシ|ビラ]]でトクヨの肩書が「前東京女高師教授」になっていたことにトクヨは激昂し、「余は死せるか!」と冒頭の5分間熱弁を振るった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=146-147}}。トクヨは臨時教員養成所が3年かけて教える内容をわずか1年で塾生に叩き込み、49人の1期生を世に送り出した{{sfn|西村|1983|p=210}}。この1期生には、後に[[参議院議員]]となる[[山下春江]]がいた<ref>「大学生 三代の歩み 30 女の園(八) たくましい体育教育 五輪入賞も生んだ特訓」読売新聞1969年10月28日付朝刊、9ページ</ref>
創立構想時には「日本女子体操学校」の名で1年制の学校とし、[[入学試験]]がない代わりに1か月後に本入学試験を課して見込みのある者のみ残す方針{{#tag:ref|トクヨの留学先のKPTCを模範としたものである{{sfn|西村|1983|p=197}}。|group="注"}}であった{{sfn|西村|1983|pp=196-197}}。[[校舎]]は東京・下代々木(後の[[小田急小田原線]][[参宮橋駅]]付近{{#tag:ref|二階堂体操塾創立時にはまだ小田急線は開業しておらず、[[京王線]][[神宮裏駅]](現存せず)が最寄駅であった{{sfn|西村|1983|p=197}}。当時の代々木は人家もまばらで自然環境が良く、塾のすぐ近くには[[代々木練兵場]]([[ワシントンハイツ (在日米軍施設)|ワシントンハイツ]]を経て[[代々木公園]]となる)があった{{sfn|西村|1983|p=197}}。|group="注"}})に借りた[[庭園]]付きの邸宅を利用し、設立前から住み込みで準備していた{{sfn|西村|1983|pp=196-197}}。しかし開校前になって校名を「二階堂体操塾」に、仮入学制度をやめて選抜を行うこととした{{sfn|西村|1983|p=196, 200}}。また、卒業しても何の資格も得られないが、中等教員として体操科教師となれるだけの能力を身に付けさせることは請け負うし、体操科教師の不足している現状では無資格でも教師職を得て最低でも月給60円を得るだろうと宣言した{{sfn|西村|1983|p=200}}。
 
塾の評判から、2期生は30人定員だったにもかかわらず、[[1923年]](大正12年)6月時点で72人が在籍していた{{sfn|西村|1983|pp=217-218}}。同年[[9月1日]]に関東大震災が発生し、塾舎が半倒壊し使用困難になる被害を受けたが、トクヨと塾生80人は全員無事{{#tag:ref|塾で教鞭を執っていた弟の真寿が駆けつけたところ、[[余震]]の不安から代々木練兵場に避難していた{{sfn|西村|1983|p=219}}。東京女高師の教え子2人が心配して訪ねて来て、「無事でよかった」と抱き合って泣いた、という一幕もあった{{sfn|西村|1983|pp=219-220}}。|group="注"}}であった{{sfn|西村|1983|p=217, 219}}。塾は1か月休止し生徒を実家に帰したが、その後塾再建のため、塾生が体操やダンスをしている写真を売り歩き資金調達を図った{{sfn|西村|1983|p=220}}。トクヨは[[荏原郡]][[松沢村 (東京府)|松沢村]]松原(現・[[世田谷区]][[松原 (世田谷区)|松原二丁目]]、[[日本女子体育大学附属二階堂高等学校]]の位置{{sfn|穴水|2001|p=23}})に移転を決め、[[1924年]](大正13年)[[1月25日]]に[[バラック]]の塾舎へ移転した{{sfn|西村|1983|p=220}}。当日は代々木から松原まで約6 [[キロメートル|km]]の道のりを塾生が[[机]]や[[椅子]]を抱えて行進した{{sfn|西村|1983|p=220}}。
開塾に際して定員は22人と定めていざ募集をかけてみると、予想を上回る4倍の出願があり、約40人に入学を許可{{#tag:ref|1期生は途中で辞めた者、親の反対や既に教師をしていて休職許可を取れずに諦めた者、資格の採れる臨時教員養成所に転校した者、途中入学した者などがいたため、正確な入学者数を特定できなかった{{sfn|西村|1983|pp=205-207}}。『わがちから』によると1期の卒業生は49人であった{{sfn|西村|1983|p=210}}。|group="注"}}した{{sfn|西村|1983|p=200}}。二階堂体操塾は[[全寮制]]を敷くことにしていたため、トクヨが借りていた邸宅だけでは不足し、隣家も借り受け、2棟を新築して校舎兼寄宿舎に充当した{{sfn|西村|1983|p=201}}。もっとも広い21畳の部屋は、学科教室、[[講堂]]、[[体育館]]、[[音楽室]]、自習室、[[食堂]]、[[寝室]]と7種の用途があったことから「[[七面鳥]]のお部屋」と呼ばれた{{sfn|西村|1983|p=207}}。運動場が不足したため、代々木練兵場を「黙認」の形で使わせてもらっていた{{sfn|西村|1983|p=209}}。
 
開校初年の[[時間割]]は以下の通りであった{{sfn|西村|1983|p=201}}。トクヨ塾長が自ら授業を行ったほか、トクヨの弟・二階堂真寿が国語と和歌を担当し、軍人や[[軍医]]ら軍関係者、[[野口源三郎]]・[[大谷武一]]ら体育界の重鎮も教鞭を執った{{sfn|西村|1983|p=201, 207, 215}}。また、トクヨの母・二階堂キンと[[家政婦|お手伝いさん]]2人が[[家事]]を行って塾生を支えた{{sfn|西村|1983|p=217}}。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
| &nbsp; || 月 || 火 || 水 || 木 || 金 || 土
|-
| 1 || colspan="6"|体操
|-
| 2 || colspan="6"|体操
|-
| 3 || 競技 || 英語 || 競技 || 英語 || 英語 || 倫理
|-
| 4 || 競技 || 心理 || 競技 || 和歌 || 英語 || 倫理
|-
| 5 || 体育史 || 音楽 || 解剖 || 競技 || 衛生 || &nbsp;
|-
| 6 || &nbsp; || &nbsp; || 生理 || 遊技 || 救急法 || &nbsp;
|}
開校して間もなく、体操教師不足の時勢からトクヨの活動は世間の注目を浴び、9月には塾生に出張教授依頼が舞い込むほどであった{{sfn|西村|1983|p=209}}。この年の[[12月4日]]、[[東京キリスト教青年会会館]]で[[第6回極東選手権競技大会]]を前にした女子体育の講演会が開かれ、野口源三郎・大谷武一・[[沢田一郎]]・内藤起行に続いてトクヨも演壇に立った{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=144-146}}。この時の[[チラシ|ビラ]]でトクヨの肩書が「前東京女高師教授」になっていたことにトクヨは激昂し、「余は死せるか!」と冒頭の5分間熱弁を振るった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=146-147}}。
 
トクヨは臨時教員養成所が3年かけて教える内容をわずか1年で塾生に叩き込み、49人の1期生を世に送り出した{{sfn|西村|1983|p=210}}。この1期生には、後に[[参議院議員]]となる[[山下春江]]がいた<ref>「大学生 三代の歩み 30 女の園(八) たくましい体育教育 五輪入賞も生んだ特訓」読売新聞1969年10月28日付朝刊、9ページ</ref>。塾生は就職せずとも生きていけるような良家の女子であったが、見知らぬ土地への赴任もいとわず、体育教師となった{{sfn|勝場・村山|2013|p=14}}。しかもうち半数は([[3学期制]]の)2学期の末までに就職先が決まっており、トクヨの指導力が社会的に評価されていたことが窺える{{sfn|西村|1983|pp=212-213}}。トクヨは卒業生に次の言葉を送っている{{sfn|西村|1983|p=211}}。
{{Cquote|学校を我が家と心得、校長を親と思うて大切に仕へよ、同僚を師と仰ぎ、生徒を国宝と思へ、常に職を励みて業を成し、倹を行ひて身を立て、道を崇めて国家に奉仕を怠るべからず、かくて汝の生命をして最も幸福ならしめよ。}}
 
塾の評判から、2期生は30人定員だったにもかかわらず、[[1923年]](大正12年)6月時点で72人が在籍していた{{sfn|西村|1983|pp=217-218}}。同年[[9月1日]]に関東大震災が発生し、塾舎が半倒壊し使用困難になる被害を受けたが、トクヨと塾生80人は全員無事{{#tag:ref|塾で教鞭を執っていた弟の真寿が駆けつけたところ、[[余震]]の不安から代々木練兵場に避難していた{{sfn|西村|1983|p=219}}。東京女高師の教え子2人が心配して訪ねて来て、「無事でよかった」と抱き合って泣いた、という一幕もあった{{sfn|西村|1983|pp=219-220}}。|group="注"}}であった{{sfn|西村|1983|p=217, 219}}。塾は1か月休止し生徒を実家に帰したが、その後塾再建のため、塾生が体操やダンスをしている写真を売り歩き資金調達を図った{{sfn|西村|1983|p=220}}。トクヨは[[荏原郡]][[松沢村 (東京府)|松沢村]]松原(現・[[世田谷区]][[松原 (世田谷区)|松原二丁目]]、[[日本女子体育大学附属二階堂高等学校]]の位置{{sfn|穴水|2001|p=23}})に移転を決め、[[1924年]](大正13年)[[1月25日]]に[[バラック]]の塾舎へ移転した{{sfn|西村|1983|p=220}}。当日は代々木から松原まで約6 [[キロメートル|km]]の道のりを塾生が[[机]]や[[椅子]]を抱えて行進した{{sfn|西村|1983|p=220}}。
 
3期生には[[1928年アムステルダムオリンピック]]に日本女子選手として初出場し、陸上[[800メートル競走|800m走]]で同じく日本女子史上初となる[[銀メダル]]を獲得した[[人見絹枝]]が入学した<ref name="ks1903"/>{{sfn|勝場・村山|2013|pp=21-56}}。塾創設時のトクヨは[[アスリート]]を育成する気は毛頭なかったが、絹枝と出会って女子体育の発展にアスリート養成が不可欠との認識に至った{{sfn|勝場・村山|2013|pp=23-25}}{{#tag:ref|夏休み明けに岡山県から絹枝宛に県大会出場要請が届いたのを機にトクヨが絹枝への態度を180度転換したのは確かだ{{sfn|勝場・村山|2013|pp=24-25}}が、1925年(大正14年)時点では「少数の選手を出すために多くの生徒を犠牲にするのは考えねばならぬこと」と語っており、まだアスリート養成には向かっていない<ref name="yh1925">「女の運動も 或程度まで 男と同じでよい 過激と云って左程 退けるには及ばぬ 二階堂女塾長 二階堂トクヨさん語る」読売新聞1925年11月11日付朝刊、7ページ</ref>。一方、人見に憧れて体操塾・体専に入学する生徒が現れ{{sfn|勝場・村山|2013|p=13}}、[[1927年]](昭和2年)になって「この四月から選手育成の試みをする考へ」を示した{{sfn|萩原|1981|p=180, 195}}。|group="注"}}。1925年(大正14年)4月、東京女子大学に復帰し体操科の担任を務め、東京女子医学専門学校(現・[[東京女子医科大学]])でも週1回教え始めた{{sfn|西村|1983|pp=224-225}}。両校での勤務についてトクヨ本人は「御主に仕ヘて忠義をして見たい」と語っているが、二階堂体操塾の[[旧制専門学校|専門学校]]昇格のための学習・準備を兼ねていた可能性がある{{sfn|西村|1983|pp=224-225}}。
 
=== 専門学校昇格と晩年(1926-1941) ===
{{see also|日本女子体育専門学校 (旧制)#専門学校への昇格}}
[[1926年]](大正15年)[[3月24日]]{{sfn|西村|1983|p=226}}、日本女子体育専門学校(体専)に昇格・改称した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}。私立の女子専門学校としては日本で20校目であり、初の女子体育専門学校であった{{sfn|西村|1983|p=227, 230}}。ところが定員を150人に増やしたところ、開校初年は約130人、2年目は約70人と[[定員割れ]]してしまった{{sfn|西村|1983|p=229}}。その理由を資格が取れないからだと考え、[[1928年]](昭和3年)[[6月4日]]、体専は中等教員無試験検定資格を取得し、学生は卒業と同時に体操科の中等教員免許が取得できるようになった{{sfn|西村|1983|p=229}}。しかしその後も学生数は回復せず、1学年40 - 50人台の状態が続いた{{sfn|穴水|2001|p=157}}。弟の真寿は、[[日中戦争]]が暗い陰を次第に濃くしていったことがその理由の1つであると分析した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=209}}。
[[1926年]](大正15年)[[3月24日]]{{sfn|西村|1983|p=226}}、[[日本女子体育専門学校 (旧制)|日本女子体育専門学校]](体専)に昇格・改称した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}。私立の女子専門学校としては日本で20校目であり、初の女子体育専門学校であった{{sfn|西村|1983|p=227, 230}}。この頃のトクヨは忙しさのあまり居留守を使ったり{{#tag:ref|居留守を見破って長居する訪問客もいたが、その時のトクヨは客の前を素通りして別の部屋に行くということをやってのけた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=185-186}}。これを見た客はさすがに唖然として帰る人が多かったという{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=186}}。|group="注"}}、黒髪を切り[[スキンヘッド|丸坊主]]になったりした{{#tag:ref|1930年(昭和5年)・1931年(昭和6年)頃から坊主頭だったという{{sfn|西村|1983|p=246}}。そこでトクヨは「桜菊[[尼]]」と自称するようになった{{sfn|西村|1983|p=222}}。|group="注"}}エピソードが関係者の間で知られている{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}。震災の被害や学校移転で資金繰りに窮し、学生からも借金をする羽目になった{{sfn|西村|1983|pp=227-228}}。文部省が審査のために来校した時には、[[慶応義塾大学]]や東京女子体操音楽学校(現・[[東京女子体育短期大学]]/[[東京女子体育大学]])から図書や備品を借りて審査をやり過ごした{{sfn|西村|1983|p=228}}。
 
この頃のトクヨは忙しさのあまり居留守を使ったり{{#tag:ref|居留守を見破って長居する訪問客もいたが、その時のトクヨは客の前を素通りして別の部屋に行くということをやってのけた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=185-186}}。これを見た客はさすがに唖然として帰る人が多かったという{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=186}}。|group="注"}}、黒髪を切り[[スキンヘッド|丸坊主]]になったりした{{#tag:ref|1930年(昭和5年)・1931年(昭和6年)頃から坊主頭だったという{{sfn|西村|1983|p=246}}。そこでトクヨは「桜菊[[尼]]」と自称するようになった{{sfn|西村|1983|p=222}}。|group="注"}}エピソードが関係者の間で知られている{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}。震災の被害や学校移転で資金繰りに窮し、学生からも借金をする羽目になった{{sfn|西村|1983|pp=227-228}}。文部省が審査のために来校した時には、[[慶応義塾大学]]や東京女子体操音楽学校(現・[[東京女子体育短期大学]]/[[東京女子体育大学]])から図書や備品を借りて審査をやり過ごした{{sfn|西村|1983|p=228}}。
 
[[ファイル:Physical Education Teachers of Tokyo Higher Normal School.png|thumb|右から順に今村嘉雄、野口源三郎、二宮文右衛門、浅川正一。この写真は1941年(昭和16年)の[[東京高等師範学校]](現・[[筑波大学]])の体育科教師陣であるが、浅川以外は二階堂体操塾・体専でも教師を務めた。]]
体専時代のトクヨの学校経営は、思いの強さから「専制的」と見られ、トクヨと相いれず学校を去った教師も少なくなかった{{sfn|西村|1983|p=247}}。11年ほど体専で講師を務めた今村嘉雄も不満を抱いていた1人であったが、表立ってトクヨに反発するの1人の理事{{#tag:ref|今村は「林良富」と書いているが、おそらく林良斉(良斎)の誤記である{{sfn|西村|1983|p=247}}。林は[[大日本帝国海軍|海軍]]軍医の出身で、二階堂体操塾創設時代から教鞭をとり、解剖学や救急療法などの授業を担当した人物である{{sfn|西村|1983|p=207}}。|group="注"}}しかいなかったと語り、晩年のトクヨを「よい軍国婆さん」と表現した{{sfn|西村|1983|pp=247-248}}。社会が[[戦争]]へと向かっていったことと戦前の体育が軍と深い関係があったこともあり、トクヨは青年[[将校]]を愛し、将校の側もそれを分かっていて[[軍事演習]]の帰りに兵隊を連れてたびたび来校した{{sfn|西村|1983|pp=247-248}}。その際には授業を中断して湯茶で接待したり、軍人に見せるために学生にダンスさせたりしていたという{{sfn|西村|1983|p=247}}。トクヨの日々の発言や雑誌『ちから』の記事も[[国家主義]]・[[国粋主義]]的な色味を帯びていき、「日本のほこり」のために女子スポーツ選手を輩出しようと考えるようになっていった{{sfn|西村|1983|pp=248-251}}。
 
こうした中でトクヨは学校経営の実務を名誉校長の二宮文右衛門に任せ{{sfn|西村|1983|p=248}}、校内に引きこもり、病気がちとなった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=208-209}}。弟の真寿に「自分なんぞは今に誰からも相手にされなくなって、電信柱の蔭にひとりでうずくまっているかもしれない」という苦しい胸の内を明かした{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=209}}。[[1933年]](昭和8年)にトクヨとの面会を許された記者によると、当時のトクヨは[[火鉢]]で[[餅]]を焼きながら来客を応対し、3坪ほどの部屋を書斎兼校長室としていた<ref name="yh1933">"スポーツ界 人物風景 C スポーツ兩性觀 「陸のヲバちゃん」二階堂女史 熱・熱・『…よ』と力んで」読売新聞1933年2月24日付朝刊、5ページ</ref>。室内は洋風で奥には「正義無敵」の額があり、トクヨは[[ロイド眼鏡]]をかけ、和装していた<ref name="yh1933"/>。[[語尾]]の「〜よ」を強調する話し方をし、楽しみは[[入浴]]・[[睡眠]]・月1回の[[歌舞伎]]鑑賞であった<ref name="yh1933"/>。
 
[[1941年]](昭和16年)[[4月7日]]、体専の[[入学式]]の朝に倒れ、東京海軍共済組合病院(現・[[東京共済病院]])に入院、後に本人の希望で[[慶應義塾大学病院]]に転院{{#tag:ref|トクヨが慶應病院を希望したのは、10年来の知己で体専の校長副代理を務めた加藤信一([[慶応義塾大学]]教授で[[博士(医学)|医学博士]])がいたからである{{sfn|穴水|2001|p=149, 158}}。|group="注"}}した{{sfn|西村|1983|p=252}}。病名は[[胃癌|胃ガン]]で、ほかに[[糖尿病]]や[[白内障]]などの持病があった{{sfn|西村|1983|p=252}}。4月14日{{#tag:ref|[[4月24日]]説もある{{sfn|穴水|2001|p=149}}。|group="注"}}にはトクヨの妹・とみの娘である美喜子を[[養子縁組|養女]]にとった{{sfn|西村|1983|p=10}}。入院中、体専の生徒や卒業生は看病や見舞い、[[輸血]]を申し出たが、一切断っている{{sfn|西村|1983|p=253}}{{#tag:ref|週1回、[[放射線治療]]のために病室から移動する際に運搬車を押すことは例外的に認められた{{sfn|西村|1983|pp=252-253}}。[[看護師]]の制止を振り切って卒業生が病室に入って来た際には「二階堂を見舞う暇があったら自分の職務を立派に果たして来なさい!」と叫んだが、布団をかぶってすすり泣いたという{{sfn|西村|1983|p=253}}。また別の人には、「今大往生を楽しんでいるところだ、最後の聖地をけがされたことは残念だ、出て行ってくれ」と激怒した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=214}}。弟の清寿が見舞いに来た時でさえ、開口一番「なんでこんなところに来た、帰れ」と激昂した{{sfn|穴水|2001|pp=150-151}}。|group="注"}}。同年7月17日午前1時40分に死去、60歳であった{{sfn|西村|1983|p=254, 262}}。当日は稀に見るような暑さであったという{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}。生涯[[独身]]であった{{sfn|西村|1983|p=247}}。
[[1941年]](昭和16年)[[4月7日]]、体専の[[入学式]]{{#tag:ref|この年の入学者は90人で、体専史上最多となった{{sfn|穴水|2001|p=157}}。|group="注"}}の朝に倒れ、東京海軍共済組合病院(現・[[東京共済病院]])に入院、後に本人の希望で[[慶應義塾大学病院]]に転院{{#tag:ref|トクヨが慶應病院を希望したのは、10年来
知己で体専の校長副代理を務めた加藤信一がいたからである{{sfn|穴水|2001|p=149, 158}}。|group="注"}}した{{sfn|西村|1983|p=252}}。病名は[[胃癌|胃ガン]]で、ほかに[[糖尿病]]や[[白内障]]などの持病があった{{sfn|西村|1983|p=252}}。4月14日{{#tag:ref|[[4月24日]]説もある{{sfn|穴水|2001|p=149}}。|group="注"}}にはトクヨの妹・とみの娘である美喜子を[[養子縁組|養女]]にとった{{sfn|西村|1983|p=10}}。入院中、体専の生徒や卒業生は看病や見舞い、[[輸血]]を申し出たが、一切断っている{{sfn|西村|1983|p=253}}{{#tag:ref|週1回、[[放射線治療]]のために病室から移動する際に運搬車を押すことは例外的に認められた{{sfn|西村|1983|pp=252-253}}。[[看護師]]の制止を振り切って卒業生が病室に入って来た際には「二階堂を見舞う暇があったら自分の職務を立派に果たして来なさい!」と叫んだが、布団をかぶってすすり泣いたという{{sfn|西村|1983|p=253}}。また別の人には、「今大往生を楽しんでいるところだ、最後の聖地をけがされたことは残念だ、出て行ってくれ」と激怒した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=214}}。弟の清寿が見舞いに来た時でさえ、開口一番「なんでこんなところに来た、帰れ」と激昂した{{sfn|穴水|2001|pp=150-151}}。|group="注"}}。同年7月17日午前1時40分に死去、60歳であった{{sfn|西村|1983|p=254, 262}}。当日は稀に見るような暑さであったという{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}。生涯[[独身]]であった{{sfn|西村|1983|p=247}}。
 
「ゆかり」と題した手帳には、次の言葉が互いに何の脈絡もなく並んでおり、死の間際のトクヨの心境を映し出している{{sfn|西村|1983|pp=253-254}}。( / は改行)
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=== 留学以後の体育観 ===
{{see also|日本女子体育専門学校 (旧制)#教育方針}}
留学以降のトクヨの体育観は「知育・徳育の基礎」、「保護愛育的体育」の2点に特徴づけられる{{sfn|穴水|2001|pp=129-130}}。
 
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=== 女子体育と女子スポーツ ===
{{see also|日本女子体育専門学校 (旧制)#選手育成の批判から推進へ}}トクヨが留学から帰国した当時の日本では、井口阿くりら先人の努力もむなしく、女子体育は男子体育よりも下位に置かれ、女子体育の標準点や到達点の設定には程遠く、男子体育を1段から数段下げた教材を女子に与えている状態であった{{sfn|穴水|2001|p=132}}。教育現場では、体力的に男子体育の指導が満足にできなくなってきた老教師が女子体育で威張り、トクヨは「この立ちぐされ連」と手厳しい批判を行った{{sfn|穴水|2001|p=132}}。「女子体育は女子の手で」というトクヨの口癖は、男性教師は女子の身体特性をよく理解せず、過度に配慮した体育を課す現状が女子のためになっていないという考えを表したもので、女性体操教師共通の思いであった{{sfn|西村|1983|p=171}}。トクヨは著書『足掛四年』に「何時の世でも女らしい体操家が女子の世界には勝利を占めねばなりませぬ」という言葉を綴っている{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=162}}。また1925年(大正14年)に全国女学校長会議で「[[走高跳]]、[[スキー]]、[[バスケットボール]]、[[ソフトボール|インドアベースボール]]などは女子には過激なので深く考えて行わねばならぬ」と決議したことに対して、トクヨは自身の経験上、心配には及ぶまいとして、ある程度までは男子と同じでよいと意見した<ref name="yh1925"/>。
 
トクヨにとって女子体育の目的とは良妻賢母であり、健全な女性でなければ健全な子供を産めないので、女子体育は国力の源であると考えていた{{sfn|田原|2006|pp=459-460}}。また女子の身体の構造と機能は、男子より複雑であるから、男子体育よりも女子体育の方が重要であると主張した{{sfn|穴水|2001|pp=132-133}}。したがって男子と同じ体育を女子にさせても成功はないと述べ、女子に適した教材としてダンスを採用した{{sfn|穴水|2001|p=133, 138}}。逆に女子に適さない教材として激しい運動を挙げ、具体的には[[マラソン]]を例示した{{sfn|西村|1983|p=170}}。マラソンは女子には激しすぎる上、優美ではないからだとした{{sfn|西村|1983|p=170}}。
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=== ダンスの採用 ===
{{main|日本女子体育専門学校 (旧制)#ダンス}}
ダンスは、スウェーデン体操のうちの優美体操の領域に相当し、女子に適する運動として積極的に採用した{{sfn|穴水|2001|p=138}}。ダンスが曲線的運動で女子に曲線美を与えることと、ダンスが民族の女性的精神の発露であると考えたからである{{sfn|西村|1983|p=169}}。ダンスそのものは、トクヨのイギリス留学前より日本の体操科の授業で取り入れられており、井口阿くりによって{{仮リンク|ファーストダンス|en|First dance}}や[[ポルカ]]セリーズなどが持ち込まれていた{{sfn|西村|1983|p=178}}。トクヨ自身、留学前の石川高女教師時代から、カドリールやレディポルカなどの[[ハイカラ]]なダンスを授業や運動会で実施していた{{sfn|西村|1983|p=47}}。明治時代の井口やトクヨによるダンスの普及活動は、日本の学校ダンスの先駆的な取り組みであり、体操的な要素を持ったドイツの諸派のダンスを主に採用していた{{sfn|川畑・浅井 編|1958|pp=187-188}}。留学中にはロンドンの舞踏塾に13回通塾して3人の教師から個人レッスンを受け、[[ホーンパイプ]]、スコッチ[[リール (ダンス)|リール]]、アイリッシュ[[ジグ (音楽)|ジグ]]、ウェルシュダンスなどの稽古に励んだほか、数校でイギリスの民族舞踊などを学んだ{{sfn|西村|1983|pp=96-102}}。
 
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=== 体操服の改良 ===
{{see also|日本女子体育専門学校 (旧制)#服装}}
留学から帰国したトクヨは、[[和服]]が自然な呼吸機能を阻害する{{#tag:ref|和服は胸部を圧迫し、体を締め付けるため、浅薄な上部呼吸しかできないとトクヨは主張した{{sfn|西村|1981|p=166}}。|group="注"}}ので改良しなければならないと考え、「和服式体操服」を考案した{{sfn|西村|1981|pp=166-167}}。留学先のイギリスで自国の文化を大切にする教育に触れて感銘を受け、ぜひとも体操服を和風にしたいと考えたのであった{{sfn|西村|1981|p=167}}。