「ミハイル・ラリオーノフ」の版間の差分

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== 略歴 ==
[[ヘルソン県]]の[[ティラスポリ]]出身。[[1898年]]に[[モスクワ美術・彫刻・建築学校]]にて[[イサーク・レヴィタン]]と[[ヴァレンティン・セーロフ]]に師事。過激な意見のために三度にわたって停学の憂き目を見るが、[[1900年]]に[[ナタア・ゴンチャロワ (画家)|ナタリア・ゴンチャロワ]]と出逢い、生涯にわたる関係を築く。
 
[[1902年]]から、[[印象派]]の画風を採る。[[1906年]]、[[パリ]]訪問の後、[[後期印象派]]に転向、その後は部分的にロシアの看板書きに影響されつつ[[原始主義|ネオプリミティヴィスム]]の画風に転じる。[[1908年]]、[[モスクワ]]の「金羊毛展」に出品。そこには[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]、[[ポール・ゴーギャン]]、[[ジョルジュ・ブラック]]、[[アンリ・マティス]]、[[アンドレ・ドラン]]らの作品も出展された。
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ラリオーノフは2つの芸術集団を結成している。一つは「[[ダイヤのジャック]]」([[1909年]] - [[1911年]])であり、もう一つは、より急進的な「[[ロバの尻尾]]」([[1912年]] - [[1913年]])である。それぞれの名付け親もラリオーノフであった。ラリオーノフは別の画家集団も擁護しており、そのなかに[[ウラジーミル・タトリン]]、[[マルク・シャガール]]、[[カジミール・マレーヴィチ]]がいる。1911年、モスクワで1日限りの個展を開く。[[1913年]]、[[レイヨニズム]]を創出。これはロシア初の[[抽象絵画#「抽象美術」「抽象芸術」について|抽象美術]]運動であった。
 
[[1915年]]、ロシアを離れ、[[セルゲイ・ディアギレフ]]のもとで[[ロシア・バレエ団]]のパリ公演のために[[舞台美術]]を担当した。[[ロシア革命]]後は後半生をフランスで過ごし、市民権も取得。[[1955年]]にはナタリアと籍を入れたが[[1962年]]に死別。その後再婚し、[[1964年]]に[[フォントネー=オー=ローズ]]で死去。[[イヴリー=シュル=セーヌ]]のイヴリー墓地に埋葬された。
 
[[2001年]]、[[沿ドニエストル共和国]]中央銀行が記念硬貨の銀貨を鋳造した際、ラリオーノフの肖像が利用された。