「チリ・クーデター」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
107行目:
プロパガンダの面でも米国政府はピノチェトを支援した。その多くは、ピノチェト政権の国際的イメージアップを狙ったもので、チリのキリスト教民主党の著名な議員たちがラテンアメリカとヨーロッパを回ってクーデターを正当なものとして説明するというツアーの資金を提供した<ref name=":0" />。
 
ピノチェトの権力の源泉でありチリ全土を恐怖に陥れた秘密警察DINAも、CIAと密接な関係にあった。DINA創設時には、組織化と訓練の面でCIAが協力した<ref name=":0" />。DINA内部にCIA工作員を配置することをCIA副長官が提案したこともある<ref name=":0" />。さらにDINA長官のマヌエル・コントレラスはCIAから報酬を受け取っていた。それは、CIAが進める工作でDINAの協力が必要だったから、とのことだ<ref name=":0" />。
 
1976年9月、アジェンデ政権下の外務大臣で駐米大使の経験もあった[[オルランド・レテリエル]]が滞在先の[[ワシントンD.C.]]でDINAによる車爆弾で暗殺された。レテリエルは、その一か月ほど前に、ピノチェト軍事政権による人権侵害と同政権による新自由主義的経済政策は表裏一体の関係にあるとする批判記事を『ネーション』誌で発表したばかりだった<ref name=":0" />。この事件は、よりによって米国の首都でのテロ行為であったため、当時の大統領[[ジミー・カーター]]が態度を硬化させ、一時ピノチェト政権との関係が悪化した。その後関係はある程度回復したが元の状態にまでは戻らず、アメリカ政府内にはピノチェトに対する不信感が残った。そして、米国の合法的居住者だった19歳のチリ人カメラマンが生きたまま火をつけられるという事件<ref name=":0" />が米国でも報道されると、米国政府もピノチェトから距離を置くようになり、スポンサーを失ったピノチェトは[[1990年]]に大統領を辞任する。レテリエル暗殺がその遠因ともなっていたとする説もある。