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[[康帝 (東晋)|康帝]](司馬岳)に庾翼は北伐を上表し、加えて鎮を対後趙の最前線である[[襄州区|襄陽]]へと移すことへの許可を求め、承認も得ぬうちから六州から[[牛]]や[[驢馬]]を徴発し始めていたが朝廷に却下され、続いて[[安陸市|安陸]]への移鎮を求めるもこれも却下された。これらの行動を車騎参軍の[[孫綽]]に諌められるも聞く耳持たず、夏口へと勝手に軍団を移動させて再度襄陽への移鎮を上表すると、実兄の庾冰や[[桓温]]、譙王[[司馬無忌]]らの賛成によって襄陽への移鎮が承認され、都督征討諸軍事(後に征西将軍・南蛮校尉も追加)となり、庾翼の代わりに庾冰が武昌へと移り、後任に入った。
 
[[344年]]、庾翼は[[桓宣]]に後趙に占拠されていた[[樊城区|樊城]]の攻略を命じたが、桓宣は丹水の戦いで後趙の李羆の前に大敗を喫し、これに激怒した庾翼は桓宣を建威将軍に降格した上で峴山へと左遷した。同年中に成漢討伐に[[周撫 (東晋)|周撫]]と[[曹璩]]を向かわせたが[[江陽区|江陽]]で[[李桓]]に敗れた。また、11月に庾冰が亡くなると長子の庾方之に襄陽の守備を任せて夏口へと移り、庾冰の領兵を自らの指揮下に置き、朝廷からは江州・豫州刺史に任じられたが豫州刺史は辞退し、替わりに楽郷への移鎮の許可を要求したが朝廷に拒否された。
 
=== 最期 ===