「吉備真備」の版間の差分

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神護景雲4年([[770年]])、称徳天皇が崩じた際には、娘(妹)の[[吉備由利|由利]]を通じて天皇の意思を得る立場にあり、永手らと白壁王(後の[[光仁天皇]])の立太子を実現した。『[[水鏡]]』など後世の史書や物語では、後継の天皇候補として[[文室浄三]]および[[文室大市]]を推したが敗れ、「長生の弊、却りて此の恥に合ふ」と嘆息したという。ただし、この[[皇嗣]]をめぐる話は『[[続日本紀]]』には認められず、この際の[[藤原百川]]の暗躍を含めて後世の誤伝あるいは作り話とする説が強い<ref>[[河内祥輔]]、[[瀧浪貞子]]など</ref>。
 
光仁天皇の即位後、真備は老齢を理由に辞職を願い出るが、光仁天皇は兼職の中衛大将のみの辞任を許し、右大臣の職は慰留した。宝亀2年([[771年]])に再び辞職を願い出て許された。それ以後の生活については何も伝わっておらず、宝亀6年([[775年]])10月2日薨去。享年8380。最終官位は正二位前右大臣。
 
[[奈良市]]内にある[[奈良教育大学]]の構内には真備の墓と伝えられる吉備塚([[吉備塚古墳]])がある。