「美輪明宏」の版間の差分

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== 略歴 ==
=== 長崎時代(1935年5月15日- 1951年) ===
[[1935年]]([[昭和10年]])[[5月15日]]、[[長崎県]][[長崎市]]において、丸山作一ヌメの間に、5人兄弟の次男として誕生する。美輪の実家は、長崎市内の「丸山遊郭」と呼称された[[遊郭]]街であり、「世界」という名前の[[カフェ]]を経営していた。[[1941年]]12月、[[イギリス]]や[[アメリカ合衆国]]との戦争体制に入った中で、美輪明宏の父親は「敵性文化を商売にする事は時局にそぐわぬ」と言われて、やむ無くカフェを閉店せざるを得なくなり、金融業に転業する。美輪明宏(10歳)は、[[長崎市への原子爆弾投下]]時、長崎市本石灰町(爆心地から約4キロ)の自宅におり無事だったが{{refnest|group="注釈"|夏休みの宿題である絵を描いていて、その仕上がりを見ようと二、三歩後ろへ下がった途端、ぴかっと光った。偶然、後ろに下がったため、一命を取り留めたと語っている<ref>美輪明宏著『紫の履歴書』</ref>。}}、その後、近くの[[防空壕]]で待機した後に、6日後の終戦の日に爆心地近くにあった生母の実家へ祖父母を1人で探しに行き、惨状を目の当たりにする<ref group="注釈">2005年のNHKの番組『[[あの日 昭和20年の記憶]]』に被爆者の一人として、インタビューイとして、出演した時には、1945年8月15日に、実家に戻ると水を求めてきた瀕死の被爆者らが押し寄せて、一家総出で水を与えたと証言している。とりわけ女性の被爆者に水を与えたところ、幼い自分を拝んでそのまま逝去する女性の姿に言及すると、涙ぐみ、「まさに地獄ですよ」と、語った。</ref><ref group="注釈">朝日新聞の『祈り ナガサキノート2』では「あの地獄のような光景が私の歌づくりの原点になっています」と語り(これは同書の帯に使用された)、赤子を抱えた母親の死体を見て、「無償の愛」(美輪の作品のテーマのひとつである)を知った。</ref>。
 
[[1945年]]([[昭和]]20年)[[8月9日]]、雲1つない快晴の日、長崎県長崎市本石灰町にある自宅において、美輪明宏(10歳)は窓際で夏休みの宿題に[[御伽草子]]の「[[万寿姫]]」の絵を製作していた。自身が製作した絵の仕上がりを確認するため、2、3歩後方に下がった時、[[原子爆弾]]が長崎県に投下された。何千もの[[マグネシウム]]を焚いたような白い光だった。美輪明宏は、雷光かと思い、天気の良い日なのにと不思議に思う。しかし、直後には、世界が息を止めたような深い静寂に包まれるのを実感したと言う。その直後に、激しい爆発音が聞こえ、家がぐらぐら揺れて傾いた。お手伝いに促され2人で布団をかぶると[[空襲警報]]が鳴りだし、その後爆風で机の下に飛ばされていた兄を起こし3人で防空壕に向かうが、景色が一変していることを知る。隣接する劇場は天井が崩れ落ち、[[勤労奉仕]]の[[女子挺身隊]]の宿舎は形を残していなかった<ref name="yomiuri">[[讀賣新聞]][[2015年]][[8月9日]]「戦後70年あの夏9」美輪明宏</ref>。
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=== 歌手 丸山明宏 ===
[[エンリコ・カルーソー]]や[[ベニャミーノ・ジーリ]]の様な[[オペラ]]歌手、コンサート歌手を夢見て、[[1951年]]の春、美輪明宏(15歳)は、国立音楽高等学校(現・[[国立音楽大学付属高等学校]])進学の為、するため上京する。しかし家業の倒産をきっかけに高等学校を中退する。その後、進駐軍のキャンプ廻りをしながらジャズを歌唱する。2015年時点で「芸歴64年、1951年(昭和26年)に進駐軍のキャンプ廻りでジャズを歌いギャラを頂いたことがプロとしての始まり」と本人が語っている。
翌[[1952年]]、美輪明宏(17歳)は、新宿駅で寝泊りしていたが、[[銀座]]7丁目にある[[シャンソン]]喫茶「[[銀巴里]]」([[1951年]]~[[1990年]])の美少年募集の張り紙広告をきっかけに、シャンソン喫茶「銀巴里」との専属契約を交わし、[[歌手]]デビューを飾る。国籍・年齢・性別不詳として売り出す。