「周撫 (東晋・前趙)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
改名済、補足
編集の要約なし
1行目:
'''周 撫'''<ref>『晋書』巻81 劉遐では、周堅という名であり、一名が撫であったと記されている。</ref>(しゅう ぶ、? - [[319年]])は、[[五胡十六国時代]]の人物。[[沛郡]]の人。[[東晋]]初期に仕えたものの、まもなく漢(後の[[前趙]])に寝返ったが、東晋の討伐軍に敗れた。
 
== 生涯 ==
東晋が成るとこれに仕え、[[彭城郡|彭城]][[内史]]に任じられた<ref>『十六国春秋』巻22 徐龕では、泰山郡太守であったと記されている。</ref>。
 
[[318年]]12月、沛国[[内史]]周黙を殺害して、東晋に叛いた。周撫は配下らとともに漢の大将軍[[石勒]]に降った。東晋は[[下ヒ郡|下邳]]内史[[劉遐]]を彭城内史に任じ、[[徐州]][[刺史]]蔡豹・[[泰山郡]][[太守]][[徐龕]]に周撫討伐を命じた。
 
319年2月、周撫は寒山で劉遐・蔡豹・徐龕・鷹揚将軍[[蘇峻]]と戦った。周撫は敗れ、敗走中に徐龕の部将の于薬によって討ち取られ、首級は[[建康 (都城)|建康]]に送られた。