「若菜嘉晴」の版間の差分

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引退と同時に[[吉本興業]]とマネジメント契約<ref>日刊ゲンダイ 2013年11月9日発行号</ref>し、また[[1992年]]より[[1996年]]までは[[ラジオ関西]]野球解説者であった。
 
[[1997年]]から[[福岡ソフトバンクホークス|]]の前身福岡ダイエーホークス]]の一軍バッテリーコーチを務めた。この時に吉本興業とのマネジメント契約を解消している。
 
[[1999年]]には現役時代経験のなかったリーグ優勝・日本一になっている。
 
[[2001年]]、9月30日の対[[大阪近鉄バファローズ]]戦で監督の[[王貞治]]のシーズン[[本塁打]]記録55本に並んでいた[[タフィ・ローズ]]に対して敬遠の指示を出し、試合後にそれを自分が独断で行ったことを表明、翌10月1日には日本プロ野球コミッショナーがフェアプレーを求める異例の声明を発表、さらに翌10月2日にはパ・リーグ会長がこの件でダイエクスに厳重注意処分とした<ref>ベースボールマガジン社刊「日本プロ野球事件史1934-2013」104ページ</ref>。
 
現在は[[J SPORTS]](2007年までは[[TVQ九州放送]]も兼務)解説者であるが、[[福岡放送]]の『[[めんたいワイド]]』や『[[朝ドキッ!九州]]』にも出演するなど、北部[[九州地方]]を拠点とした[[ローカルタレント]]としての顔もある。2003年より[[スポーツニッポン]]野球評論家(西部本社→現東京本社西部総局)も務める。また、[[プロ野球マスターズリーグ]]・[[福岡ドンタクズ]]にも[[内野手]]として参加している。日本ハムOBということもあり、[[2007年]]より北海道のメディアにも解説者として登場している。2009年から福岡放送で解説者も務める。
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=== コーチ・解説者として ===
ダイエーのコーチ時代には、なかなか成長しない城島を巡って[[王貞治]]監督とたびたび衝突。就任1年目の1997年の[[オールスターゲーム_(日本プロ野球)|オールスター]]期間中に王から城島の捕手としての[[リード]]と捕球のまずさを叱責され、一塁手か三塁手へのコンバート案が浮上し、若菜のコーチ責任をも問われたことから、球団に辞任を申し出た。最終的に東京の自宅に戻っていた王監督に電話を入れたところ、電話に出た恭子夫人はあえて王と代わらずに「主人から話は聞いています。お仕事に口を挟むようで申し訳ないのですが、今、あなたと主人との板ばさみになって困るのは城島君ではないでしょうか。お電話のことは主人に私からお伝えしておくので、もう一度考えてみてください」と上手くとりなした。王にも若菜が謝罪していると伝え、これにより両者は和解することができた。事の真相を若菜が恭子夫人から聞かされたのは、ダイエ王監督時代のホクスとして初優勝した[[1999年]]のハワイへの優勝旅行の時だったという<ref>[[斉藤直隆]]著『プロ野球 最後のサムライ』(コアマガジン、2005年)ISBN 9784877348199</ref>。
 
== 詳細情報 ==