「新青年 (中国)」の版間の差分

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| カタカナ=シンチンニェン
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'''新青年'''(しんせいねん)は[[中華民国]]の[[新文化運動]]の中心的な役割を担った[[雑誌]]であり、1910年代の中国の思想界をリードした。
 
== 『新青年』の創刊 ==
[[漢]]代の「儒学の官学化」以来約2000年間、経学を中心とした知的営為が続き、「[[儒教]]」は中国社会の奥深くまでしみついており、[[科挙]]の廃止([[1905年]])で知識人の意識ががらりと変わったわけではなかった<ref name="inokuchi171">井ノ口(2012年)171ページ</ref>。この「儒教」からの真の解放を目指して中国の再生を企図した新文化運動が主流になり、その中核が[[文学革命]]であった<ref name="inokuchi171"/>。文学革命の舞台となったのは、[[1915年]]9月15日に上海で創刊された本雑誌『新青年』(発刊当初は『青年雑誌』であり、[[1916年]]に『新青年』に改題された)であった<ref name="inokuchi171"/>。[[袁世凱]]による帝制運動が進められ、復古の風潮が全国を覆っていた時期である<ref name="kojima/maruyama82">小島・丸山(1986年)82ページ</ref>。この『新青年』の代表的スローガンが「民主と科学」であり、執筆者達は、「民主」と「科学」を基調とする新文化の建設を訴えた<ref name="inokuchi171"/><ref name="fujii70">藤井(2011年)70ページ</ref>。背景には、[[辛亥革命]]が「儒教」社会の構造や人間の倫理規範を何ら改変させるところなく、[[第一次世界大戦]](1914年-1919年)に参戦中の列強による「瓜分」が深刻になってきたことに加え、[[袁世凱]]政権が日本からの「[[対華21ヶ条の要求]]」を受け入れたこと(1915年)への挫折感・屈辱感・危機感があった<ref name="inokuchi171"/>。『新青年』の執筆者のうち、進化論の「適者生存」に因んで改名した[[胡適]]は、留学中のアメリカから「文学改良芻議」(1917年)を寄稿し、古典に典拠を求めないことや俗字俗語の使用を避けないことなど、文章の表現形式に関する改革を訴えた<ref name="inokuchi171"/>。これは科挙の影響を受けた知識人が使う古典文語文の使用をやめ、庶民の用いる[[白話文]]を用いて文章を綴ろうという主張である<ref name="inokuchi171"/>。この胡適の影響を受け、[[陳独秀]]は正式に「文学革命」を提唱し、2000年にわたる儒教という呪縛からの個人の解放を訴えた<ref name="inokuchi171"/>。また[[魯迅]]は、[[狂人日記]]([[1918年]])を著して、表では礼節を説く「儒教」が裏では生命の抑圧者となったことを指摘した<ref name="inokuchi172">井ノ口(2012年)172ページ</ref>。さらに、[[1917年]]の[[ロシア革命]]の影響を受けた[[李大釗]]は人々を革命に立ちあがらせる理論として[[マルクス主義|マルクス思想]]を中国に最初に紹介した<ref name="inokuchi172"/>。
 
== 『新青年』の展開 ==
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