「川越街道」の版間の差分

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新編武蔵風土記稿 赤浜村
新編武蔵風土記稿 小前田村
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== 川越・児玉往還 ==
'''川越・児玉往還'''は、江戸から川越を経て[[上野国|上州]][[藤岡市|藤岡]]を結ぶ、川越街道と児玉街道を合わせた28里半の道で、中山道の脇往還だった。中山道脇往還川越道とも言う。[[巡見使]]や役人は主にこの街道を通った。また女性の利用者が多く「姫街道」という呼称が残っていることでも知られる{{efn|群馬県下仁田町での呼称}}。川越から先の児玉往還([[塚越宿]]{{efn|『新編武蔵風土記稿』の「塚越村」に、「秩父辺及び西上州へ行く道にて石井村と当村で伝馬の役を勤めり」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 塚越村}}。}}・[[石井宿]]{{efn|『新編武蔵風土記稿』の「石井村」に、「川越城下より上野国或いは秩父大里の方へ行く路にてここは駅家なり」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 石井村}}。}}・[[高坂宿]]{{efn|『新編武蔵風土記稿』の「[[高坂村 (埼玉県)|高坂村]]」に「当村は(中略)江戸より川越にかかりて秩父郡の辺及び西上州へ往く馬継なり」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 高坂村}}。}}・[[菅谷宿]]{{efn|『新編武蔵風土記稿』の「菅谷村」に「秩父郡或いは中山道に出る脇往還にして人馬継立を成せり」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 菅谷村}}。}}・志賀宿{{efn|『新編武蔵風土記稿』の「志賀村」に「古くは菅谷村の内で、分村したのは[[寛文]]年中と伝えられ、菅谷村と共に人馬次立を行った」旨記述がある{{sfn|新編武蔵風土記稿 志賀村}}。}}・[[奈良梨宿]]{{efn|『新編武蔵風土記稿』の「奈良梨村」に「西上州及び児玉郡八幡山{{efn|武蔵国[[児玉郡]]八幡山町。児玉郡[[児玉町]]を経て、現[[本庄市]]児玉町八幡山。}}辺への通路にして人馬の継場なり」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 奈良梨村}}。}}・[[今市宿 (武蔵国)|今市宿]]{{efn|『新編武蔵風土記稿』の「[[今市村]]」に「一条の街道は江戸及び川越より上州への通路にして当所はその継場なり」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 今市村}}。}}・[[赤浜宿]]{{efn|『新編武蔵風土記稿』の「赤浜村」に「往還は江戸より川越にかかり上州への通路にて中山道の裏道なりかつ当所はその継場」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 赤浜村}}。}}・[[小前田宿]]{{efn|『新編武蔵風土記稿』の「小前田村」に「当所は江戸より秩父及び上野国への往還係りて(中略)数村へ又馬の継立をなし民家軒を並べて宿駅のさま頗る賑えり」とある{{sfn|新編武蔵風土記稿 小前田村}}。}}・広木宿・児玉宿・藤岡宿)の旅には通常さらに3日を要した。
 
=== 概要 ===
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* {{cite book|和書|title=新編武蔵風土記稿|volume=巻ノ224男衾郡ノ3.赤浜村|publisher=内務省地理局|date=1884-6|id={{NDLJP|764010/68}}|ref={{sfnref|新編武蔵風土記稿 赤浜村}}}}
* {{cite book|和書|title=新編武蔵風土記稿|volume=巻ノ224男衾郡ノ3.今市村|publisher=内務省地理局|date=1884-6|id={{NDLJP|764010/70}}|ref={{sfnref|新編武蔵風土記稿 今市村}}}}
* {{cite book|和書|title=新編武蔵風土記稿|volume=巻ノ234榛沢郡ノ5.小前田村|publisher=内務省地理局|date=1884-6|id={{NDLJP|764011/102}}|ref={{sfnref|新編武蔵風土記稿 小前田村}}}}
 
== 関連項目 ==