「日本女子体育専門学校 (旧制)」の版間の差分

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[[1949年]](昭和24年)、美喜子が30歳の若さで急逝し{{sfn|西村|1983|p=10}}、トクヨの資産は夫の二階堂直富が継承した<ref name="yu5101">「名門に春寒い学校騒動 学長、養嗣子が対立 日本女子体育大学 “二階堂遺産”めぐって」読売新聞1951年1月29日付朝刊、3ページ</ref>。[[学制改革]]に伴い、体専は[[1950年]](昭和25年)に[[日本女子体育短期大学]](日女体短)に改組し、学長に清寿、副学長に真寿が就任した<ref name="yu5101"/>。この時、財団も[[学校法人二階堂学園]]に改組したが、その手続き過程で体専の校舎がトクヨの個人名義になっており、これを継承した直富に校舎を譲ってもらわねば学校経営が立ち行かなくなるという波乱があった<ref name="yu5101"/>。
 
日女体短への完全移行は[[1951年]](昭和26年)で、同年に体専としての最後の卒業生26人を世に送り出した{{sfn|掛水|2018|p=223}}。日女体短は、トクヨが体操塾を開塾した4月15日を[[創立記念日|開校記念日]]と定めて休講とし、学生一同を連れてトクヨの墓([[築地本願寺]]和田堀廟所{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=160}})に参る日とした{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=200-201}}。その後、日女体短は東京女高師時代のトクヨの教え子である[[戸倉ハル]]を教授に迎え入れ、戸倉を中心に4年制大学設立を推進し、[[1965年]](昭和40年)に日本女子体育大学を開学した{{sfn|桐生|1981|p=258}}。
 
== カリキュラム ==