「国家統一綱領」の版間の差分

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== 概要 ==
国統綱は当時の[[李登輝]][[中華民国総統|総統]]の参加の下に策定された。「[[一つの中国]]」の原則が掲げられたことは1992年に[[香港]]で[[華人民共和]]窓口機関[[海峡両岸関係協会]](海協会)と台湾中華民国窓口機関[[海峡交流基金会]](海基会)の競技協議、さらに翌[[1993年]]に[[シンガポール]]で実現海協会の[[汪道涵]]会長と海基会の[[辜振甫]]董事長による初の中台トップ会談('''第一次辜汪会談''')が実現する契機となったとされる<ref>Huang, Jing; Li, Xiaoting (2010). Inseparable Separation: The Making of China's Taiwan Policy. World Scientific. pp. 147–148, 151.</ref>。
 
しかし、[[2000年]]に総統に就任した[[陳水扁]]は「四不一沒有([[四つのノー、一つのない]])」の声明の中で、国統綱の存続を政権公約としていたが、[[2005年]]に中国の[[胡錦濤]]政権が制定した[[反国家分裂法]]制定に対し、既に台湾に武力威嚇をしないという原則が崩壊したとしてこれを「終止」することを宣言した。