「ザ・ビーチ・ボーイズ」の版間の差分

=== ブラザー・リプリーズ時代以後 ===
[[File:Reagans with the Beach Boys.jpg|thumb|right|[[ロナルド・レーガン|レーガン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]夫妻と(1983年6月)]]
[[1970年]]の『[[サンフラワー (アルバム)|サンフラワー]]』でキャピトルレコードを離れ、ワーナーブラザース傘下のリプリーズに移籍する。また、本格的に自分たちのレーベルであるブラザーレコード名義で作品を発表するようになる。続いて[[1971年]]の『[[サーフズ・アップ (アルバム)|サーフズ・アップ]]』がリリースされた。そのタイトル・トラック「サーフズ・アップ」は才能あるシンガー・ソング・ライターのヴァン・ダイク・パークスとの共作で、元々は『スマイル』に収録される曲であったが、ブライアンの思った通りのボーカルが録音できず、カールが代わってリードボーカルを務めた。このように『スマイル』が頓挫してから以後に発表されたほとんどのアルバムには、分散する形で『スマイル』収録予定曲の別バージョンが収録されている。
 
[[1970年代]]を通してブライアンの活動は低調で、[[1973年]]の『[[オランダ (アルバム)|オランダ]]』も複雑な評価を得た。ブライアンは[[1976年]]にツアーに復帰したが、彼の精神疾患は[[1990年代]]まで問題のままだった。ただし、ブライアン不在の中、他のメンバーは精力的にツアーを続け、ライブバンドとしての地位を確立していく。また、ブライアンの穴を埋めるために、メンバーが作った楽曲の中には佳作もあり、ビーチボーイズが決してブライアン一人の才能によって成り立っていたわけではないことを示す結果となった。
 
しかし、[[1983年]][[12月28日]]、ウィルソン三兄弟の次男であるデニスが事故死する。泥酔状態でクルーザーから水中に飛び込み、溺死したのである。当時、それぞれがソロアルバムを出すなど、すでに分裂の危機にあった彼らは、デニスの死をきっかけとして一時的に以前の結束を取り戻すかのように見えた。
 
[[1985年]][[7月13日]]に行なわれた[[ライヴ・エイド]]に出演する。亡くなったデニス以外のメンバー5人(ブルース、カール、マイク、アル、ブライアン)が[[フィラデルフィア]]・[[ジョン・F・ケネディ・スタジアム|JFKスタジアム]]に集結し、「[[カリフォルニア・ガールズ (ザ・ビーチ・ボーイズの曲)|カリフォルニア・ガールズ]]」「ヘルプ・ミー・ロンダ」「[[素敵じゃないか]]」「[[グッド・ヴァイブレーション]]」「[[サーフィン・U.S.A. (曲)|サーフィンU.S.A.]]」を披露した。これにより残された5人での活動に大きな期待が寄せられたが、同年リリースされたアルバム『[[ザ・ビーチ・ボーイズ '85|ザ・ビーチ・ボーイズ]]』以後、ブライアンはマイクとの共作をやめ、精神面での主治医ユージン・ランディの誘導により、ソロ活動に重きを置くようになっていった。
 
=== 3分裂 ===