「天神川 (京都市)」の版間の差分

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== 地理 ==
京都市[[右京区]]鳴滝の沢山(標高515.8m)東麓に発し、一旦北流。[[北区 (京都市)|北区]][[鷹峯]]台地を囲むように東へ出た後は概ね南流、京都市街の衣笠・北野を潤す。北野天満宮の西方を流れ、しばらくのあいだ[[西大路通]]の東側100mあたりを並行して南進する。花園付近([[円町駅]]の南方)で西に寄って一級河川御室川を併せ、一級河川[[西高瀬川]]と交差。御室川合流から西京極まで[[天神川通]]([[国道162号]]・[[京都市道184号宇多野吉祥院線]])と並行してさらに南流し、南区吉祥院下ノ向町で一級河川[[桂川 (淀川水系)|桂川]]に注ぐ。
 
=== 水害による河川移設付け替え ===
1935年(昭和10年)6月の京都水害(「鴨川水害」とも呼ばれるが、浸水面積は天神川、桂川沿いのほうが広い)で被災後、花園より南側は現在のように付け替えられた。
1935年(昭和10年)6月の京都水害(「鴨川水害」とも呼ばれるが、浸水面積は天神川、桂川沿いのほうが広い)で被災後、花園より南側は現在のように付け替えられたが、水害以前は丸太町通り以南では[[天井川]]となって蛇行しながら西院から西京極の東側から吉祥院へと流れていた。御室川は宇多川を合流部から天井川となって南下、途中西高瀬川と立体交差して西京極をへて西中付近で桂川へと注いでいた。それが京都水害で決壊付け替えが決定したが着工されず紙屋川周辺住民が昭和13年9月に勤労奉仕で着工、昭和15年に本格着工したが戦時下で計画大部分は中断した。昭和26年7月の水害で丸太町通りとの交差部付近で決壊して西の京地区が浸水した。御室川では山陰線下流の5ヶ所で決壊、沿岸の常盤・太秦地区が浸水した。さらに有栖川、瀬戸川が氾濫し、これらの氾濫は合流し東梅津から南へ山内・西院・西京極を水没させた。被害は床上浸水1473戸・床下浸水5177戸を出した。被災後に再度着工され29-30年にかけての工事で御室川は石積み護岸のかみそり堤防となった。また昭和33年には支流の紙屋川に砂防ダムが造られた<ref>参考文献・植村善博著『京都の治水と昭和大水害』文理閣 2011年4月発行</ref>。
 
1935年(昭和10年)6月の京都水害(「鴨川水害」とも呼ばれるが、浸水面積以前は天神川、桂川沿いのほうが広い)で被災後、花園より南側は現在のように付け替えられたが、水害以前は丸太町通り以南では[[天井川]]となって蛇行しながら西院から西京極の東側から吉祥院へと流れていた。御室川は宇多川を合流部から天井川となって南下、途中西高瀬川と立体交差して西京極をへて西中付近で桂川へと注いでいた。それが京都水害で決壊両河川とも沿川に甚大な被害が発生した。特に天神川沿川には人家が多く、河川の拡幅が困難なことから、御室川への付け替え、掘込河道化が決定したが着工されず紙屋川周辺住民が昭和13年9月に勤労奉仕で着工、昭和15年に本格着工したが戦時下で計画大部分は中断した。昭和26年7月の水害で丸太町通りとの交差部付近で決壊して西の京地区が浸水した。御室川では山陰線下流の5ヶ所で決壊、沿岸の常盤・太秦地区が浸水した。さらに有栖川、瀬戸川が氾濫し、これらの氾濫は合流し東梅津から南へ山内・西院・西京極を水没させた。被害は床上浸水1473戸・床下浸水5177戸を出した。被災後に再度着工され29-30年にかけての工事で御室川は石積み護岸のかみそり堤防となった。また昭和33年には支流の紙屋川に砂防ダムが造られた<ref>参考文献・植村善博著『京都の治水と昭和大水害』文理閣 2011年4月発行</ref>。
=== 砂防ダム内に集落 ===
1953年に土砂災害防止のために砂防ダム({{ウィキ座標|35|2|37.6|N|135|44|7.5|E|region:JP|地図|name=紙屋川砂防ダム}})が設けられたが、完成直後から建設に関わったとみられる[[在日韓国・朝鮮人]]たちが堆砂敷に住宅を建て、「不法占拠」のかたちで住み着いている<ref>[http://www.kyoto-np.co.jp/kp/rensai/syuzainote/2013/130403.html 取材ノートから-紙屋川の砂防ダム内集落 住民との対話が不可欠] [[京都新聞]] 2013年4月3日</ref>。
 
=== 砂防ダム内に集落 ===
1953年に土砂災害防止のために砂防ダム({{ウィキ座標|35|2|37.6|N|135|44|7.5|E|region:JP|地図|name=紙屋川砂防ダム}})が設けられたが、完成直後から建設に関わったとみられる[[在日韓国・朝鮮人]]たちが堆砂敷に住宅を建て、「不法占拠」のかたちで住み着いている<ref>[http://www.kyoto-np.co.jp/kp/rensai/syuzainote/2013/130403.html 取材ノートから-紙屋川の砂防ダム内集落 住民との対話が不可欠] [[京都新聞]] 2013年4月3日</ref>が、砂防ダムの構造上、大きな出水のたびに堆砂敷内の家屋が浸水してきた。近年では、2010年7月に浸水事案が発生。2012年7月15日の[[平成24年梅雨前線豪雨#京都府|集中豪雨]]でも30棟の床上浸水被害があり、住民4人がボートで救出される事案が発生した<ref>[http://www.city.kyoto.lg.jp/gyozai/cmsfiles/contents/0000132/132345/(siryou2)7gatu8nitiooamehigaijyoukyou.pdf 平成24年7月15日大雨・洪水警報に伴う被害状況:京都市]</ref>。このように大雨の度に繰り返し浸水していることに加えて、2014年8月には[[広島県|広島]]で多数の犠牲者を出した[[平成26年8月豪雨による広島市の土砂災害|土砂災害]]が起こり、防災のあり方に注目が集まったため、京都府はそれまで黙認していた姿勢を転換して住民の自主移転を視野に本格的に動き出した<ref>[http://www.sankei.com/west/news/150105/wst1501050039-n1.html 京都市の砂防ダム内に集落 60年にわたり“不法占拠” 京都府、退去求めて本格対策へ(1/3ページ)] - [[産経新聞|産経]]WEST 2015年1月5日</ref>。しかし、高齢化が著しい住民の間には「なぜ今更」という反発や、立ち退き後の生活の見通しが立たないことへの不安が広まっており、さらには住民組織がなく住民代表もいないために個別対応を迫られていることも重なって、住民側との協議は難航している<ref>{{Cite web|url=https://www.sankei.com/west/news/150105/wst1501050039-n3.html|title=京都市の砂防ダム内に集落 60年にわたり“不法占拠” 京都府、退去求めて本格対策へ(3)|accessdate=2018年9月9日|publisher=産経新聞}}</ref>。
 
2013年に46戸あった家は2018年までに16戸の解体が終わっている<ref>{{Cite web|url=https://www.pref.kyoto.jp/sabo/1330927775154.html|title=天神川(紙屋川)開キ地区の不法占拠について|accessdate=2019年4月15日|publisher=京都市}}</ref>。