「相合元綱」の版間の差分

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[[大永]]3年([[1523年]])7月、当主であった甥の[[毛利幸松丸]](興元の嫡男)が9歳で病死し、元就が後継者となった。これに対して[[坂広秀]]・[[渡辺勝 (戦国武将)|渡辺勝]]らは元綱を推していた{{Sfn|吉田龍司|2010|p=52}}。一説には、[[尼子豊久]]を毛利氏の娘婿として当主に立て、元綱は後見人となる予定であったとも言われる。
 
大永4年([[1524年]])4月{{Sfn|歴史群雄シリーズ9|1991|p=166}}、元綱らは元就への[[謀反]]を計画していたが、それに気付いた元就に先手を取られて[[志道広良]]率いる軍勢300の[[夜襲|夜討ち]]を受ける('''元綱事件'''{{Sfn|吉田龍司|2010|p=56-57}})。『[[陰徳記]]』によると、船山城の元綱の手勢は30名余りだったが、武勇に優れる元綱は広良の軍勢を押し返す抵抗を示すが、最後には体中を射抜かれた後に槍で刺されたとされる{{Sfn|吉田龍司|2010|p=56-57}}{{要出典範囲|date=2019年6月|また、別説では尼子氏の謀略により憤死したとも伝わる。ただし、その没年には、大永3年8月から大永5年([[1525年]])3月の間、と諸説ある}}
 
===死後===