「ドイツ民主共和国」の版間の差分

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File:Bundesarchiv Bild 183-S90339, Berlin, DDR-Gründung, Regierung bei Tschuikow.jpg|ソ連管理委員会の委員長として陸軍大将[[ワシーリー・チュイコフ|チュイコフ]]が、東ドイツ政府の要人たちを迎えている(撮影:[[1949年]]11月11日)
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人民議会の最初の選挙は、[[1950年]]10月15日に決まり、統一名簿に基づいて行われた。憲法発後1年以上たって期日とその選挙方法がやっと決まったことに対して、[[ドイツキリスト教民主同盟 (東ドイツ)|CDU]]や[[ドイツ自由民主党|LDPD]]の[[中道右派]]の政治家たちは反発したが、代わりに新政府での高い職位を得ることで決着した。[[ドイツ自由民主党|LDPD]]党首の{{仮リンク|ハンス・ロッホ|de|Hans Loch}}は財務大臣に、[[ドイツキリスト教民主同盟 (東ドイツ)|CDU]]党首の{{仮リンク|オットー・ヌシュケ|de|Otto Nuschke}}は副首相に、その党友である{{仮リンク|ゲオルグ・ドルティンガー|de|Georg Dertinger}}は外務大臣になった。彼らの在任中、東ドイツの外交政策で重要だったのは二つある。[[1950年]]7月6日、[[ポーランド人民共和国]]と{{仮リンク|ゲルリッツ協定|de|Görlitzer Abkommen}}を結んで、[[オーデル・ナイセ線]]を国境線として確定したこと、[[1950年]]9月29日、[[経済相互援助会議]](RGW/COMECON)に加盟したことである。
 
東ドイツは西ドイツと同様に、旧[[ドイツ国]]({{lang|de|Deutsches Reich}})の正統な[[継承国]]であることであると主張していた。当初は東側の憲法も民主的であることが強調され、東西ドイツが協調する可能性が模索されたが失敗した。非武装中立国としてドイツを独立させることを提唱した{{仮リンク|スターリン・ノート|de|Stalin-Noten}}([[1952年]])に対し、西側諸国が全ドイツでの自由選挙による独立を最低条件としたことで折り合いがつかなかったように、双方にとって納得できない提案を双方が押し付け合ったためである。