「中西啓介」の版間の差分

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|職名2 = [[国会議員|衆議院議員]]
|選挙区2 = ([[和歌山県第1区 (中選挙区)|旧和歌山1区]]→)<br>[[和歌山県第1区|和歌山1区]]
|当選回数2 = 17
|就任日2 = [[1976年]] - [[1995年]][[5月12日]]<br>[[1996年]]
|退任日2 = [[2000年]]
|退任理由2 = 落選 衆議院解散
}}
'''中西 啓介'''(なかにし けいすけ、[[1941年]][[2月6日]] - [[2002年]][[1月27日]])は、[[日本]]の政治家。[[衆議院議員]](7期)、[[防衛大臣|防衛庁長官]]([[細川内閣|第53代]])を歴任した。
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[[和歌山県]][[和歌山市]]生まれ。[[和歌山県立桐蔭中学校・高等学校|和歌山県立桐蔭高等学校]]を経て、[[1965年]]、[[早稲田大学]][[政治経済学部]]経済学科を卒業し、[[山口喜久一郎 (政治家)|山口喜久一郎]]事務所に就職した。
 
[[1976年]]、[[第34回衆議院議員総選挙]]に山口の後継者として[[和歌山県第1区_(中選挙区)|旧和歌山県第1区]]から[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]公認で出馬立候補し、初当選を果たした(当選同期に[[中村喜四郎]]・[[鳩山邦夫]]・[[中島衛]]・[[西田司]]・[[池田行彦]]・[[堀内光雄]]・[[相澤英之]]・[[津島雄二]]・[[鹿野道彦]]・[[塚原俊平]]・[[与謝野馨]]・[[渡辺秀央]]・[[中川秀直]]・[[甘利正]]など)。当初は秘書として仕えた[[中曽根康弘]]の縁で[[政策科学研究所 (派閥)|中曽根派]]に所属していたが、後に[[木曜クラブ|田中派]]へ移り、[[平成研究会|竹下派]]結成に加わる。竹下派では、同郷の[[二階俊博]]と共に[[小沢一郎]]の側近であった。
 
[[1992年]]の竹下派分裂に際しては、[[改革フォーラム21|羽田派]]の旗揚げに参加する。[[1993年]]、[[宮澤内閣_(改造)|宮澤改造内閣]][[不信任決議]]案に賛成票を投じ、自民党を離党して[[新生党]]結党に参加。[[第40回衆議院議員総選挙]]では、新生党公認で当選した。総選挙後、8党派による[[細川内閣]]で[[防衛庁長官]]に任命され、初入閣を果たすも、同年12月に辞任(後任は自身と当選同期の[[愛知和男]])。なお、この頃から[[紀陽銀行]]の不正融資への関与や、[[関西国際空港]]建設に関連し業者から献金を受けた疑惑が取り沙汰されていた。
 
[[1994年]]、[[新進党]]結党に参加する。しかし翌[[1995年]]、長男が大麻所持容疑で逮捕されたため、衆議院議員を辞職する。同年6月には[[二信組事件]]に関与したために、[[衆議院]][[予算委員会]]で[[証人喚問]]を受けた。[[1996年]]の[[第41回衆議院議員総選挙]]では、新進党公認で[[和歌山県第1区]]から出馬立候補し、当選。政界に復帰したが、[[和歌山市]]長だった[[旅田卓宗]]や、[[東力]]も出馬立候補し、地元での中西の求心力の低下がささやかれた。
 
[[1998年]]、新進党解党に伴い、小沢一郎を党首に[[自由党_(日本 1998-2003)|自由党]]を結成するが、[[2000年]]の自由党分裂に際して袂を分かち、[[保守新党|保守党]]結成に参加して[[自公連立政権|自公保連立政権]]に残留した。しかし与党に残ったものの、自民党和歌山県連が中西への選挙協力を拒否<ref>{{Cite news |title=【激戦区】県連の反乱(2)・和歌山1区 |newspaper=日本経済新聞 |date=2000-06-22 |author= |url=http://www.nikkei.co.jp/topic3/elecnews/archive/20000622eimi041222.html |accessdate=2018-03-21}}</ref>。[[第42回衆議院議員総選挙]]では自民党和歌山県連が独自に和歌山1区で[[谷本龍哉]]を擁立し、中西は谷本に敗れ落選。そのまま政界から引退した。
 
2002年1月27日、[[心不全]]のため死去。[[糖尿病]]が悪化していたとも伝えられた。[[享年]]62(満60歳没)。