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'''浦上春琴'''('''うらがみ しゅんきん'''、[[安永]]8年([[1779年]]) - [[弘化]]3年[[5月23日 (旧暦)|5月23日]]([[1846年]][[6月16日]]))は、[[江戸時代]]後期の日本の[[文人画|文人画家]]。
 
当時、[[池田鴨方藩]]士だった[[浦上玉堂]]の長子として[[備前]](現 [[岡山県]])に生まれる。[[浦上秋琴]]は実弟。
[[名]]は選(せん)、[[字]]を伯挙(はくきょ)、十千(じゅっせん)、[[号]]は春琴のほかに睡菴(すいあん)、文鏡亭(ぶんきょうてい)、二卿(にきょう)。[[通称]]は紀一郎(きいちろう)、もしくは喜一郎。
 
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遊歴を終え、20代で[[京都]]に定住し、[[頼山陽]]や[[田能村竹田]]、[[岡田米山人]]・[[岡田半江|半江]]、[[篠崎小竹]]、[[貫名海屋]]、[[柏木如亭]]ら著名な[[文人]]・[[墨客]]との交わりを深める。
 
[[文化 (元号)|文化]]8年([[1811年]])藤木氏瀧と結婚。文化10年([[1813年]])、父 玉堂と同居([[柳馬場]]二条北)し夫婦で世話をする。[[文政]]3年([[1820年]])父 玉堂歿。
 
[[山水画]]、[[花鳥画]]に優れ、精彩で巧みでありながら透き通るような気品のある作風であった。[[中林竹洞]]や[[山本梅逸]]らと名声を競った。当時は父 玉堂の作品よりよく売れたという。また[[書道]]・[[漢詩|詩文]]に優れ、[[器物]]、書画の[[鑑定]]にも秀でていた。
 
弘化3年5月歿、[[享年]]68。
 
 
== 代表作 ==
 
*「玉堂七十歳寿像」([[1814年]]) [[林原美術館]] 蔵
*「花鳥図」屏風([[1823年]])[[東京国立博物館]] 蔵
*「花鳥図」([[1837年]])[[東京芸術大学]] 蔵
*「花卉果蔬図巻」([[1844年]]) [[京都国立博物館]] 蔵
 
 
== 著作 ==
 
*『睡庵清秘録』([[1830年]])
*『論画詩』([[1842年]])
 
 
 
== 関連書籍 ==
 
*『平安人物誌』
 
 
== 弟子 ==
 
*[[鳥越烟村]]
*[[江馬細香]]
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[[Category:日本の画家|うらかみ しゅんきん]]
[[Category:19世紀の美術家|うらかみ しゅんきん]]
{{生没年|うらかみ しゅんきん|17991779年|1846年}}
 
[[cs: Uragami Syunkin]]